ちょっとだけ

同棲中。あまあま。燎のお世話を焼きたがる翔琉。気持ち燎が積極的。



「よーし終わった!」
「ありがとう」
「いいってことよ!」
 タオルで手を拭いた翔琉がこちらに戻ってくる。いつもなら食器洗いは燎の仕事なのだが、風邪が治りきるまでは絶対禁止と両肩を掴まれベッドにぐいぐいと押し込まれてしまった。喉に少し違和感が残る程度にまで回復したのだからそんなに過保護にならなくてもといいだろうに、翔琉は早く寝なきゃだめだの一点張り。しまいには俺だってリョウにお世話を焼いてみたいんだよときた。気持ちはありがたいものの些か理不尽な気もする。
 しかしこうなっては翔琉は言うことを聞かないだろう。正面から説くより大人しくしていた方が双方のためかもしれない。それに、翔琉は口にしないが、燎の高校時代の無茶を気にかけてのことだとしたら何も反論はできない。
 読みかけのページの栞を抜こうとすると翔琉が手を差し出してきた。話が終わったらすぐ続きに戻るつもりだったのに、それすらも先回りしたのかひょいと本を取り上げられテーブルに持って行かれてしまう。
「今のリョウは休むのが仕事だからな〜? そのかわり、こっち向いて」
 翔琉は掛布団をめくってベッドに上がり込み、燎にぴったりと身を寄せて座る。それから布団を二人の膝にかけ直した。燎が言う通りに翔琉に顔を向けると、冷たい指先が前髪を払い、手の平が額を覆う。
「ん! 熱はなし」
「当然だ。もうほとんど治ってると言っただろう」
「それはそうだけど、」
 翔琉は念を押すように抑揚を付けて言ってから手を離した。
「リョウのお世話すんの楽しくてさー! 立場逆転って感じで」
「そういうものなのか」
「そういうもんだよ」
 翔琉は快活な笑みを見せる。自分は翔琉にあれこれと世話を焼く時どういった感情で接してきたのか。思えば必要だからそうしてきただけであまり意識したことはなかった。世話を焼くこと自体が楽しいと感じたことはあっただろうか。強いて言うなら、
「……また何か考え事してるだろ」
「……すまない、つい」
 翔琉に触れる口実を得るためでもあったのかもしれない。制服が汚れているとか、顔に何か付いているとか。そう考えると、大人になってしがらみの増えたはずの今よりも学生時代の方がずっと難儀していたのがどことなく奇妙だ。けれど、何事においても経験が乏しく不器用だったと捉えれば何もおかしなところはない。
 何にせよ、今やそんな理由付けがなくても好きに触れられる。お互いに精神的な枷はない。
「いいよ、別に」
 張りのあった笑みがふっと和らいで下を向く。燎はその頬に伸ばしかけた手を止めて翔琉の手の甲に重ねた。
 好きに触れられる。
 それは事実ではあった。しかしいつでもという意味ではない。翔琉のおかげでせっかく治りかけたものを当の本人にうつしてしまっては恩を仇で返すようなもの。燎はマスクのノーズワイヤーを押さえ直してから翔琉の前髪の下にそっと指を差し入れた。
「リョウ?」
「熱はないな」
「あるわけないだろ?」
「ああ、分かってる」
「分かってるなら何でだよ」
「そうしたかったからだ」
 布団から出してずっと本を持っていた指は、エアコンの効いた室内でも季節相応に冷えていた。先ほどまで台所に立っていた翔琉の額といい勝負だ。
 引っ込めた手を再び翔琉に重ね、指を絡めるように軽く握る。そこは布団の中で体温を取り戻し始めていて、ゆっくりと血が通い始めていくのを感じる。
「リョウ、急にどうした?」
 翔琉は燎の肩に頭を乗せる。
「何かおかしいか」
「いや、おかしくはないけどさあ……なんか、妙に優しいから」
「いつもは優しくないみたいな言い草だな」
「ひっどいなあ」
「どっちがだ」
 燎の切り返しに翔琉は手を引き抜き、燎がそうしたように重ね返してきた。熱を帯びた手がぎゅっと押し当てられる。
「んん……もうさあ、リョウ。ほとんど治った……よな」
「ああ」
「じゃあ……さ、ちょっとだけ」
 空いた方の手がおずおずと伸びてきて燎の耳にかかる。白いゴムが音もなく外され、燎が言葉を発する前にその口は静かに塞がれた。
 体よりも隙間なく重なる。冷えた額からは想像がつかないほど、そこは柔らかく温かい。翔琉はしばらく浸ったあと訴えかけるように燎の上唇を吸い上げる。燎も応じて翔琉の下唇を軽く挟んで舌先でゆっくりとなぞった。
「ごめん」
 翔琉は萎れるように上体を折り、燎を抱きしめながら襟元に額をすり寄せる。
「謝らなくていい。本当は俺もしたかったんだ」
「何だよ、それならそうと早く言ってくれよな」
 襟の中からもごもごと翔琉の文句が上がった。燎は丸まった背中を撫でてから、もう片方の腕も回し包むように抱く。
「悪かった。だがうつすわけにはいかないだろう? これでも気を遣ったんだ」
「分かってる……けどさ」
 燎は翔琉の両肩に軽く手を置いて身体を離し、まだ冷たいままの頬に手を添える。熱い、と思われているだろうか。
 もう一度同じところに唇を押し当てる。間を置いて端からなぞっていくと、緩む形で奥が少し開いた。力が抜け始めた体に片腕を回して支える。ざらりとした先が触れ合った瞬間、何かがふつりと切れたように翔琉は小さく息を吐いた。
「ん、んう……りょう」
 僅かな隙間から翔琉が呻くように息を漏らす。
「ん?」
「うつったら、責任取って看病してもらうからな」
「……ああ、任せてくれ」
 燎は漏れ出た吐息を拾って塞ぐ。裾から手先を差し込んで触れた腰はうっすらと汗が滲んでおり、自分と同じくらい熱を帯びていた。