ハロウィン前夜に悪魔は笑う

同棲中。名パティシエの腕が深夜に炸裂。そんな彼にすっかり絆されている燎。あまあま。



『そこで彼女はふいに力を抜いた。穏やかな笑みが波打ち際のように夕闇に溶けていく。その面立ちに差した影の色に僕が目を見張った瞬間、辛うじて繋がっていた指先がするりとほどけた。彼女は僕に背を向ける。
 たん、
 ローファーの足音が響く。遅れて翻った長い髪が真っ赤なライトに照らされ』

「あっつ!」
 台所から聞こえた声が燎の意識を一気に引っ張り上げる。
 瞼の中に儚い光景が映っていた気がしたが決してそんなことはなく、現実にあるのはいつもと変わらぬ日常だった。深いブルーのカーテン。小さなリビング。手の中にある本。進んでいないページ。半分しか開けられない両目。鈍ったまま一向に動く気配のない思考。
 首を動かし、ぶれる視界の中に声の主を捉える。
「……トモ?」
「ごめん、起こしちゃったな」
「いや、構わない。どの道このままだと風邪を引くだろうからな……」
 深く息を吐く。反動で入ってきた夜の空気は思いのほか冷たい。燎は一度鼻に触れてから額に手をやる。手の平のほうが遥かに温かい。テーブルのスマートフォンで時間を見るとそこにあったのは目を疑う時刻だった。
「こっちはもうちょいかかりそうだから先に寝てていいぞ」
「ああ、そうさせてもらう。トモも無理はするなよ」
「おう!」
 翔琉は小さな片手鍋をコンロから下ろし、角度をつけて色々な方向から中身を確認している。換気扇の音に重なって、ジューッと煮たり焼いたりするような音が聞こえる。それから甘い香り。しかしその中には焦がしたような苦味と何か独特の強い芳香が混じっている。
 台所は洗面所への通り道にある。寝支度ついでに立ち寄ると、鍋底にその正体が見えた。
「カラメルソースか」
「正解! 今回はちょーっとだけ気合い入れてるからさ……あ〜よだれ出そう」
 翔琉は片手鍋を傾ける。すると、それに合わせて光沢のある焦げ茶色のソースがとろりと流れていく。透けた銀色の鍋底に琥珀色を見せるカラメルには、所々にふつふつとした小さな泡が残っていていかにも出来たてといった具合を演出している。
「行儀が悪いぞ。気持ちは分かるが」
 窘める燎を無視して翔琉は冷蔵庫の扉を開いてしゃがみこんでいる。燎はため息をついて視線を台所に戻した。目の前の調理台には日頃から気まぐれに飲んでいたウイスキーの瓶がある。特徴的な香りはこれで付けたのだろう。
 翔琉の気持ちが分かるというのは本心だった。一緒に住み始めてから深夜の間食という悪魔的な食習慣を覚え込まされてしまったのだ。日中なら耐えられるものがなぜこの時間帯にはこんなにも抗いがたくなるのだろう。常駐しているのが腕のいいシェフ兼パティシエだから始末に負えない。

 パタン。
 冷蔵庫の扉が閉まる。
 パティシエの皮を被った悪魔が小さなカップを手にニヤニヤと邪悪な笑みを浮かべてこちらに近付いてきた。
「リョウ……味見しよう」
「やめてくれ……!」
 残った睡魔を追い出そうにも、甘くほろ苦いカラメルと洋酒の濃密な香りが頭の出入口を塞ぐ。そんな状態で魅惑的な品を突き付けられたら、興味を持たずにはいられないではないか。
「ほい、いつもの甘さ控えめ特製レンジプリン角切りかぼちゃ乗せハロウィンバージョンウイスキーカラメルソースがけ深夜の特別味見スタイル」
「トモ……!」
 燎は翔琉の肩に震える手を置いた。笑わせるためであろう長ったらしい飾り文句も今は強烈な誘い文句にしか聞こえない。
「ん? 食べないなら俺が全部もらっとくぞ?」
 翔琉は燎の葛藤をよそにスプーンを取ると、片手鍋からカラメルソースをひとすくいしてカップにたらりとかける。そしてそのスプーンでプリンをすくい取って口に含んだ。
「……うわ何だこれ!! っはあ〜! とんでもない組み合わせだな……うん……うまい……」
「トモ、お前はどうしていつもそう」
「だって待ちきれないだろ? それに、冷たーいプリンにあったかーいカラメルソースをかけて食べられるのは今だけなんだからさ、食べない方がありえないってもんじゃん?」
「それは……まあ、その香りと出来栄えならそうもなるが」
「はあ、ほんっとリョウは真面目だよな。ま、それがいいんだけど」
 翔琉は笑いながらカップとスプーンを調理台に置き、燎の頬に手を伸ばした。耳の後ろに届いた指先の冷たさに微かな震えが走る。
「あっ、ごめん。手冷たかった?」
「大丈夫だ」
 寄せられた唇も冷たかった。しっとりと濡れた下唇に自らのものを合わせ、静かに挟むようにあてがう。舌先でそっと触れるとそこにはほのかな甘みが残っていた。それに呼応するように、角度を変えて上唇が優しく吸われる。こちらにはさして魅力的な味などないというのに。
 燎は空いた手を持ち上げ翔琉の首筋の後ろを撫で下ろす。翔琉はくすぐったそうに少しだけ身をよじった。その拍子に小さな音が立って合わせ目が外れる。
 心拍が上がらないよういつもよりもゆっくりと時間をかけているのに、それがいけないのだろうか。気持ちの安らぎとは裏腹にみるみるうちに酸素は尽きていく。息を継いだ隙間にすら香りが漂っているようだった。もう一度唇を合わせ、今度は端の方から控えめになぞりながら味わう。
 頭の奥深くに残っていた疲労が丁寧に取り払われていくのが心地良い。余裕が出来たそばから甘い空気に満たされていく感覚に身を委ね燎は目を閉じる。
「リョウ、実はすんごい眠いだろ」
「……実はな」
 燎は横髪をかける仕草で自らの耳に触れる。翔琉に温められた頬と同じくらい熱を持ち始めている。この程度で酔うことはないというのに。
 燎は腕を解いて下がり、近くの壁にもたれ背中を預けた。硬さと冷たさが今は心地良い。そう長くは持たないだろうが、少しの間体を支えるには十分だろう。
 燎は無言で両手を差し出し、重なった指を取り温かな背中を抱いた。