タイトル未定 燎を連れ出した翔琉

あまあま。アンコン後、思うように弾けなくなった燎を翔琉が連れ出す話……のワンシーン。「0時52分」の過去編。



 Cに人差し指をあててそっと押し込む。柔らかい音がゆったりとした波紋になって広がっていく。調律も合っている。
「いくらでも弾いていいからさ。朝でも夜でも」
「いいのか?」
「そういう所なんだって。周りにほとんど建物なかったろ。だからじーちゃんもここにしたらしい」
「確かに」
 思い返してみるとここまでの道中に建物はあまり多くはなく、あったとしてもかなり間隔が広かったような気がする。夜に家で弾くとなると防音室しか選択肢がなかった燎にとって、好きな時に好きなだけ生ピアノを弾けるのは夢のような話だ。なのにどうしてか指はおろか胸が踊らない。こんなにもいい条件をお膳立てしてもらっているというのに。
 薄いカーテン越しに木々が葉を揺らすのが聞こえる。足元をそよぐ冷気に小さく身震いする。
 弾いてみれば何かが変わるだろうか。

 コーヒーで温めたばかりのはずの指先が軋む。見えない糸に吊られているかのようにうまく動いてくれない。頭の中で音を鳴らさなくても手が自動演奏してくれるくらいに弾き馴染んでいる曲なのに、どうして。柔軟さのある音色と自らの体の硬さが全くもって噛み合わない。
 ため息しか出てこなかった。
「あー……リョウ」
「お前の言いたいことは分かってる。すまない。こんなにもいい環境を用意してもらっているのに」
「いや、そういうんじゃなくてさ」
 パタパタとスリッパの音が近付いてくる。翔琉は両肩にポンと手をのせてきたと思ったら、
「焦らない焦らない。こうしなきゃーって思うとさ、多分逆効果なんだって」
 と、のんびり喋りながらぐいぐいと親指でマッサージを始めた。
「うっ……そ、それは、一理あるな」
 人に肩を揉まれることなど滅多にない。自分で押すのとは全く違う感覚に思わず呻き声が漏れてしまう。肩甲骨の裏をぐっと押されると、目の奥から頭の芯にかけてピリピリと痺れるような刺激が心地良い。
「リョウさん……肩こりやばいよ? こっちが疲れそう」
「そう……だったのか。自覚がなかった。無理はしないでくれ」
「それはこっちのセリフ!」
「いっ……! トモ、お前今わざと強く押しただろう」
「おう」
「何で」
「イラッとしたから」
「は? ……痛い痛い!」
 突然ぐいぐいと半ば力任せに指圧をされ痛みが走る。燎は反射的に抗議の声を上げた。しかし翔琉はお構いなしにリズミカルに親指を立てながら燎を罵り始めた。
「リョウのバカ! 頑固! 責任感強すぎ! 何でも一人で抱え込むなっての! ちゃんと言えって! 何のために俺がいると思ってんだよ! それとも俺ってそんなに不甲斐ない!? まあリョウに比べれば頼りないかもしんないけどさ! イラッともモヤッともするよ!」
「それは! 悪かった! だが……ッ、突然罵られる筋合いはな、っトモ! それはさすがに八つ当たりというものだろう」
 たまらず翔琉の手を掴み取って燎は振り返る。椅子から見上げた視界に、俯いて顔を歪める翔琉の表情があった。
「八つ当たりだってしたくなるよ……! だってリョウはさ、なっかなか俺を頼ってくれないじゃん。目の前でそんな風に大ピンチになっちゃって、なのに頼ってもらえないとか……俺にも一応立場とかあるんですけど?」
 翔琉はさも不満そうにぶつくさ言ってからぷいっと顔をそむけてしまう。燎が立ち上がってその背中に両腕を回すと、翔琉はふくれっ面を燎の肩に押し当てた。
「申し訳ないことをした。お前の気持ちも考えずに。これ以上迷惑を掛けたくない一心だったんだ」
「だからそれはお互い様だって」
「分かってる。分かってるよ。だからその……自己弁護にはなるんだが」
 燎はそこまで言ってから口を閉ざした。頭の痺れはすっかり取れたのに、うまく次の言葉が出てこない。
「……翔琉」
「え? あ、うん」
 翔琉を引き剥がして両目を覗き込む。意を決して名前を呼び捨てにすると、一瞬で薄緑色の瞳が丸くなる。燎は畳み掛けるように口にした。
「俺がお前に迷惑を掛けたくないと思っているのは、お前をこの上なく大事だと思っているからだ」
「は、……」
 翔琉の体からかくんと力が抜ける。その目はこちらに向いているようで焦点があまり合ってはおらず、瞬きをするたびにゆらゆらと微かにさまよっているようだった。小さく開いたままの口はなかなか塞がる気配がない。
「りょう」
「ん?」
「ずるい。りょうばっかりいつも」
「何がだ」
「……好きだ」
「…………はあ。全く、お前は何でいつもそう」
 再び抱きしめる。先ほどよりも温かい。翔琉の耳に頬を寄せると明らかに熱を持っているのが分かる。背中に当てた手の平に、とくんと大きく脈打つものを感じる。
「なあリョウ。ピアノは一旦置いといてさ、俺に甘やかされてくんない?」
「……今甘えているのはトモだろう」
「あー、それはそれ! これはこれ!」
 翔琉の腕に力がこめられ締め付けるように抱きしめられる。
「痛ッ、トモ! だから痛い!」
「絶対離さないからな!」
「言われなくても離れないからよしてくれ!」
「嫌だ!」