プリーズコールミー

アンコン前の二人。レイにだってきっと傷つく時はある。そんな時に拓夢が助けてくれたら。




 廊下を歩く。教室に戻る。

 チャイムまであと少し。真四角で切り取られた快晴が窓辺にずらりと並んで真っ昼間がさんさんと降り注ぐ。左頬が熱いくらいにぽかぽかと温まる。あくびが出る。

「――――!!」

 何と言っているのか聞き取れなかった。

 怒りのような悲鳴のような。ただとにかくその甲高い叫びが胃を貫いて中身を廊下中にぶち撒けた。あいた暗い穴から思い出したくないあの日がぼたぼたとこぼれ落ちて、どす黒い水たまりを作っていく。足の裏がじっとりと湿って、ぬるいじめじめがゆっくりゆっくりと滲みながら這い上がってくる。

 息ができない。

 視界の下の方がゆらゆらと揺れて辺りをねじ曲げた少しあと、その向こうに小さな点が現れた。

 ひゅ、と風切りが耳を裂く。一拍置いてから暴風がうねって、

 たっ たっ たっ たっ

 と水を打った。

 しん、

 意識が置き去っていた酸素を吸い上げる。その音がいやにざらついている。吸えば吸うほど舌は乾いて、なのに手の平はじっとりと汗ばんで、まぶたは抱えきれず水を落とした。

 星乃。

 チャイムが鳴る。走り出す。

 灰色の猛獣の毛並みはもう見えない。足跡はなく道しるべもなく影ひとつすらなくぬかるみがまとわり付いたままの自分の無様な足音だけが響く。

 そういえば舌の根の乾かぬうちにとはどういう意味だったか。

 たんとんたんとんたんとんたんとん、

 三階から二階へ、二階から一階へ、

 たったったったっとっとっとっとっ、

 直角に右に曲がってしばらくまっすぐ走って左側に並んだ靴箱の隙間の奥に消えていく背中が、

 いた。

 

 うまく掴めずぽろぽろと取り落としてしまったスニーカーに宙で足を差してみるが案の定入らずうっかり蹴り飛ばす格好になった片方が急回転して床に斜めに着地してあらぬ角度で下を向いて止まりひっくり返すも靴紐はちょうちょ結びのままで強引につま先を突っ込んでかかとを引っ張り上げてどうにかぎりぎりすとんと入って反対の足も同じように、

「ああもう何やねん!!」

 快晴。

 毎秒何メートルかで走る点Rは徐々に速度を落としながら一直線にグラウンドを進んでいます。何分後かに出発した点Hが後を追います。点Hが点Rに追い付くのはいつでしょうか。

「んなもんすぐやすぐ!! 秒や!! コンマや!!」

 点Rはグラウンドの奥の奥の隅の茂みで止まって三角形の星乃レイになりました。

 追跡終了。

「星乃」

 フェンスの手前には大きな木がいくつも植えられており涼しい日陰を作っている。拓夢はレイの隣に腰を下ろして同じように三角座りをした。荒い呼吸と動悸。風が吹いて木の葉がざあざあとすり合わさって大きな音を立て、フェンスのずっと向こうの幹線道路に混ざって消える。

 ぐす、と濁った音が響いて灰色の毛先がパサリと揺れる。影が落ちてまだら模様を浮かべる。

「ほら、ティッシュ。使い」

 ポケットティッシュを開いて中身を一枚。少しだけ引っ張り出して小さな山を作る。そのてっぺんを、膝の上で顔を守る鉄壁の腕にちょいちょいと当てる。ぱたぱたと動いた指先が餌を求める小魚のように辿り着いて、しゅっとつまみ上げた。

 レイは体操座りで下を向いたまま、足だけを動かしてじりじりと体を回転させこちらに背を向ける。そして止まるなり豪快に鼻をかんだ。

 うん、まあ、せやろな。と拓夢はその背を見ながら目を半分にし、ゴミをどうしようかと頭の端で考え始めた。

「One more」

「はいな」

 レイは二回うなずいて再び鼻をかむ。やっと静かになった。拓夢は膝を抱えていた両腕をだらんと草むらに下ろし、のけぞって大きく息を吐いた。ひんやりした雑草がわさわさと手の平を撫でる。拓夢はゆるゆると目を閉じた。のも束の間、

「ヒロ!!」

 丸めたティッシュがぽんと宙を舞って放物線を描きその点Tは秒速、

「だから何やねん!!」

 勢いよく飛びかかったレイに抱き着かれ、拓夢の全身は雑草に叩きつけられた。

「ヒロ、ワタシすごく困りました!!」

「……俺も今だいぶ困ってんねんけどな?」

 レイのほぼ全体重が拓夢の内臓を押しつぶす。首筋に草がチクチク刺さるのも気になって仕方がない。押し返そうにも両腕ごと抱きしめられているので身動きが取れない。拓夢は脱力しきって息という息をひとまとめに全部吐き出した。目先の景色は緑色の葉で埋め尽くされているが、合間から日の光が射していて、ところどころが剥げ落ちたちぎり絵のように白く光っている。

 レイは拓夢の肩口に額をぐりぐりと押し付ける。髪が首筋に触れるくすぐったさに拓夢は身をよじるも、レイは細身の割にがっしりしていてピクリとも動かせない。拓夢は苦悶のため息を絞り出した。

「クラスメイトと名前の話をしました。それで、ワタシはすごく悲しくなりました」

「名前? 人の名前ってこと?」

「はい。レイは日本語でzero……本当デスカ?」

「まあ、そうやな。数字のゼロや」

 その答えにレイは顔を横に向け、長い長い息をつく。最後の方は震えていた。

「……ワタシ、初めてこの名前イヤになりました」

「何でなん? かっこええやん」

 拓夢の率直なフォローにレイはがばっと顔を上げる。

「でも! ワタシにはいっぱいあります。家族、友達、SwingCATS、ルバート、」

 レイの両手が拓夢の両肩にかけられ、ぎゅうっと地面に押し付けられる。お次は上半身を少し起こしたレイの体重が腹に。

 拓夢はたまらず呻いた。しかしレイは全く気付いていないのか、涙を散らしながら首を左右に振るばかりだ。

「星屑旅団……ヒロが、います」

「……ああ……そういうことか。それは何ちゅうか……しんどかったな」

「しんどい、しんどいです!!」

 あああっ、とアメリカのキッズアニメのキャラクターのような声を上げてレイは拓夢の肩にすがりついた。これはティッシュより俺の着替えやな、と言う代わりに拓夢は拘束の緩んだ腕を動かしてレイの背中に回し、ぽんぽんとあやす。

「ほんま大変やったな。でもまあ、相手だって悪気はなかったと思うで? いや、辛いのはわかるけどな? だからそんなに泣かんと……」

 ざああっと一際強い風が吹いて、重なり合う葉が激しく揺れた。急に大きく開いた木々の隙間から直射日光がストレートに注いで目を射る。幹線道路の車の音がごうごうと大きく唸る。その遥か向こうで微かにサイレンの音が上がり、だんだんとこちらに近付いてくる。

「……いや、泣いてもええよ」

 でもそれはきっと気のせいだ。その証拠に、くるくる回りながら緑と白のモザイクにまじっていた赤いランプはすぐに消えて元の景色に戻っている。

 拓夢はレイの背中に手の平を乗せて何度か深呼吸をした。レイは未だにキャラクターのような泣き声を上げている。でも、もう拓夢の心と体はどこも苦痛を訴えることはない。汗ばんだレイのシャツの背中も首筋のチクチクも。ぐちゃぐちゃに濡れてしまった自分の肩口も。やっぱり自力では動かせないこの重みも。

「なあ、星乃」

 ずず、と大きく上がった鼻の音を返事だと思うことにして拓夢はレイの背中をさする。

「日本語のレイって色んな意味があるんやで? お礼の礼とか」

「オレイ?」

「サンキューってことや」

 拓夢は雑草の上のポケットティッシュを手探りで取り、再びレイの手元に差し出した。レイはよろよろと上半身を起こす。

「ホントウに? ワタシの名前がThank you……」

「まあほかにも色々とあるんやけど。でも星乃には何やかんや助けてもろてるし、ほんまサンキューや」

 レイはティッシュで鼻をかみながら何度も頷き、傍らの雑草の上に白い山を作っていく。拓夢は、どうやって持って帰ろかなこれと一瞬顔をしかめたが、見なかったことにして切り出した。

「なあ、せっかくやからレイちゃんって呼んでもええ?」

「First name! 嬉しいデス! 本当は、ホシノと呼ばれるのがちょっとさみしくて」

「何や! それならそうとはよ言ったらええのに。何やっけ、プリーズコールミー……ヒロ!」

「Yes! Please call me レイチャン!」

 レイは大きく頷いて、今度は顔の周りにぱああっと花を咲かせる。しかし、

「……そういえばヒロ。チャンって何ですか?」

 と、すぐにまばたきをして目と口をまん丸にした。

「チャン!?」

 突然の問いかけに拓夢は眉間に力を入れて宙を睨みつける。そんなん聞かれると思わんかったないつものことやけどこの発想ほんまにわからんわ逆に尊敬やな毎度試されるなあ、と頭の上で緑色がざわめく。

 拓夢はよいしょと体を起こしレイに馬乗りをやめるように促してから、あぐらで座り直した。

「考えたこともなかったなあ……うーん……色々あるけどもまあ、ざっくり言うと仲良し? な感じやな」

「ナカヨシ! めっちゃめちゃ親友ってことですね? ワタシ覚えてます。じゃあヒロはこれからヒロチャンですね?」

 レイは背筋を伸ばして正座し、拓夢の言葉に両手をパチンと合わせて応じる。

「いやそれは勘弁して!? そんなキャラちゃうもん!!」

「ヒロチャン!」

 首と手を振って否定する拓夢に、レイは灰色のヒョウに変貌して再び飛びかかった。

「うわっ! だからあかんってもう! やめや、やめ!!」

 拓夢はとっさに身体を左に倒してちぢこまり、ぎりぎりでレイをかわす。草むらに付いた両手に力をこめ、無理やりの前傾姿勢でジャンプするように飛び出した。

「ヒロ! 何でなんですかー!」

「何でも何もないわ! 嫌なもんは嫌やねん!」

 空っぽのグラウンドのど真ん中を一直線にひた走る。切る風は乾いている。それはレイも同じこと。分かっていた。計算するまでもなくそのうち点Rは自分に追い付く。それでも足は止められない。鼓動はすぐに足音と同じ速さになり、しかめっ面は下を向いた拍子にふっとゆるんだ。

「ヒロチャーン!」

「ああもうこれやから!!」

 あの音はとっくに過ぎ去った。ずっと後ろの方でレイの声が消えたあとには蹴られて飛び散った砂の音だけが疾走する。

 とっとっとっとったったったったっ、とっとっとっとったったったったっ、とっ、

 快晴。