人生を変えるということ

成人済み同棲中。もし燎にクラシックピアノの兄弟子がいたら、という想像。何もかも捏造。




 カランカラン。

 軽快なドアベルの音を背に、燎はポーチの階段を降りた。

「じゃ! 明後日くらいには動画載るだろうからコメントよろしく! 多分見ないけど!」

 彼はベルのようにからからと笑って手を振り、くるりとターンを決めて歩き出した。徹頭徹尾、どこまでも快活な男だった。

「わかりました。気を付けて」

「ん。ハイジャックされたら楽譜で殴るよ」

 俺には必要のないものだし、と彼は背中越しに笑い飛ばした。

 ハリケーン、破天荒、など付いたあだ名は数え切れない。それがこの、燎の兄弟子だ。


 燎は、幼少期から音楽スクールの他に個人指導のピアノ講師に師事していて、週一回講師の自宅でレッスンを受けていた。両親の知人であるその講師は燎の他に何人も生徒を抱えており、燎の時間の前に指導を受けていたのが、この兄弟子だった。

 本来なら燎の開始時間の十分前に兄弟子は退出する決まりなのだが、それが守られた記憶はない。燎が講師宅の玄関を開けると、廊下のガラス扉を突き破らんばかりに荒れ狂うピアノが鳴り響き、それが止むや否や、

「今日はもう終わりよ」

「嫌だ俺は帰らない!」

 の押し問答が聞こえて来るのが常だった。

「俺ももっと聴きたいので、もう一曲だけ聞かせて欲しいです」

 と、燎が興味本位で講師に申し出た時の兄弟子の顔は、今でも忘れられない。

「お前、ほんと良い奴だな! 名前は!」

勢い良く歩み寄ってきて燎の肩をバンバンと叩く兄弟子に気圧されながらも、燎は返事をした。名前を聞くなり、兄弟子はそれを脳に刻み込むようにゆっくりと声に出して反芻してから、

「リョウか! クールだな!」

 と、爽やかな笑顔を向けた。

「涼しい、の漢字ではないんですが」

「あはは! そういう意味で言ったんじゃないよ。シーオーオーエルの方」

「シーオーオーエル」

「カッコイイってこと」

 そう言って兄弟子は燎の背中をバシンと叩いて会話を締めくくり、颯爽と椅子に腰掛けた。本当に格好良いのは兄弟子のような人のことでは、と燎は漠然と考えた。


 兄弟子は背筋を伸ばして、ゆっくりと目を閉じた。

 それは、儀式だった。

 すう、と微かな音を立てて深呼吸をしてから開かれた瞳はまるで別人の物だ。あまりの変貌に燎は衝撃を受けた。

 ただ両手を掲げて白鍵にふわりと指を下ろす動作ですら、人間離れしたある種の生き物の挙動にしか見えない。これから何が始まるというのだろう。ピアノを弾くという分かりきった答えを知っているにも関わらず、何か常識の範疇を超える出来事の予感に、燎は固唾を飲んだ。

 一音目の火蓋が切って落とされた。フランツ・リストの死の舞踏。疾走する指先で風を吹き込み、弦を爆発させる。激しい演奏を指して嵐と指すことがあるが、この弾き方と鳴り響く音は最早戦争だ。銃弾と火薬。命を奪い合う行為だ。

 瞬きも、呼吸も、生きるための動作の何もかもを忘れて燎は全身にその音を浴びた。 

 最後の鍵盤から離れた指が高々と上がり、もうもうと立ち込める硝煙のような余韻と、ぐわんぐわんと頭を揺さぶる残響が完全に消えてしまうまで、兄弟子も講師も燎もじっと待っていた。

「……あのねえ。本当に君はすごい子だけど、いきなりそんな曲選んでガツガツ弾いたら燎くんも困っ」

 講師のやんわりとした諫めの言葉は、兄弟子はもちろん燎の耳にも届かなかった。

「すごい……こんなピアノ、知らなかった」

 茫然とした呟きを聞いた兄弟子は、打って変わって穏やかに微笑み、

「ありがとな」

 とだけ言い残して去っていった。

 燎はしばらくそのまま立ち尽くしていた。身体に力が入らない。講師も察してくれたようで、黙って見守っていた。やっとのことで開いた口から出た言葉は、

「先生、今日は……。俺、上手く……弾けない、かもしれません。すみません」

 初めての弱音だった。


 その日のレッスンは、講師から兄弟子の話を聞いて終わった。

 名前、年齢ーー燎より三歳上だったーー、経歴。天才と呼ばれるのを嫌い、鬼才と呼ばれるのを好むということ。リストに心酔していること。数々の音楽教室で匙を投げられここに流れ着いたこと。これまで彼が引き起こした奇想天外なエピソードは枚挙にいとまが無く、とてもこの数十分では語り尽くせないということ。

 燎は黙って頷きながら聞き終え、帰路に着いた。その後自宅で何をしたのかはよく覚えていない。もしかしたら毎日の自主練習すら放棄してしまったのかもしれない。

 それからというもの、毎週のレッスンの時間になると燎は決まって始めの十分ほどを兄弟子に渡すようになった。講師も容認した。

 はじめの数週間はひたすら兄弟子のリストを聴いた。そして、凪のような曲をも見事に弾きこなせることを知った。もっとも、本人曰くあまり性には合わないとのことだが。

 それ以降は、燎が弾いて兄弟子が講師と共に聴くこともあった。誘われて連弾ーー彼はもちろん燎に合わせるなどという手ぬるいことはしないので、食らいつくので精一杯だったがーーに挑むこともあった。

 どんなにミスをしても兄弟子はいつも手放しで燎を褒めた。

「ブラボー! リョウはすごいピアニストになれる。俺にはこんな弾き方出来ないな」

「ピアノもリョウに弾いてもらえて嬉しいだろう。俺がピアノなら泣いて喜ぶね」

 など、毎回違う言葉で燎を称賛した。

 数ヶ月経ったある日、突然兄弟子は現れなくなった。

「海外に移住するんですって。直前に言うのよ? あの子。まあ、らしいっちゃらしいけど」

 兄弟子と個人的にやり取りすることのなかった燎にとっても、それは当然知る由のなかった話だった。燎は少しだけ後悔した。

 しかし講師に彼の詳しい行き先を聞くのは憚られた。何となく、これが正しい結末なんだという直感のようなものがあったからだ。もとより兄弟子にこの国は似合わない気がしていた。正しい形に収まったのだろう。燎は己でそう結論付けた。

「ストリートピアノってあるじゃん? あれやりたくてさ、イギリス行ったんだよね」

「ロンドンですか?」

 日本にもあるのに何故、という問いかけはこの人の前では愚問だろう。燎はその手の話題で有名な駅名を挙げた。

「そうそう! せっかくなら一発目はデカイ駅で派手にやってやろうと思って」

「それで、リストを?」

「ああ。目隠しで」

「は……え?」

「クールだろ。アイマスクして、弾きまくって、動画撮って、投稿した」

 燎は額に手をやり、肘をテーブルに付いた。素面でも度し難い話だ。酒の入った頭では一層理解に苦しんでしまう。

「動画を投稿というと、最近流行ってる……」

「ん、あれ」

 兄弟子は頷いて、世界最大の動画投稿サイトの名前を挙げた。

「いやーあんなに伸びるとは思わなかったね! 振込額見てビビったの何の」

 聞く? とニヤつく兄弟子に興味がぐらついたが、燎は必死に抑え込んで制した。

「いくつになってもリョウは真面目だな」

 右手で頬杖を付いて兄弟子は笑う。

「よく言われます」

「良いじゃないか! 真面目になんて、なろうと思ってなれるもんじゃない。変わることが良さがあるのと同じように、変わらないことにも良さはある」

 兄弟子は笑顔をそのままに空いた左手を広げ、哲学めいた言葉をのたまう。

 彼が人を咎めているところを燎は見たことがない。例えどんなに下手な演奏にも、性格にも、生き方にも、彼は惜しみない賛辞を贈る。それも心からの。

 だからだろうか。下手したら傍迷惑とも取られかねない彼の振る舞いを苦痛と感じたことはないし、むしろ痛快で好ましいとすら思えてしまう。

「本当に褒め上手ですね」

「思ってることを言ってるだけだよ。あと、俺は自由だからさ。自由にさせてもらう代わりに、人のことはとやかく言わないようにしてる。ポリシーなんだ」

 彼自身の口から彼自身の人間性を知らされたのは初めてのことかもしれない。燎は深く納得した。

 俺も自由だからお前も自由。実にシンプルだった。兄弟子と、同じく自由を謳歌する他の人間たち。胸に抱くものは同じもののはずなのに何故こうも違うのか、と長年抱えていたものがすとんと腑に落ちたような気がした。

 ポリシーについて、燎は考えを巡らせてみる。自分は何を志して弾いてきたか、これからどういうスタンスで弾いていくのか。目標という物は常に掲げてはいたが、ポリシーという目に見えにくい形のものについては後回しになっていたように思う。

 兄弟子はいつの間にか空になっていたグラスを置くと、片手を上げた。応じたマスターの元へ腰を上げて歩み寄り、二言三言会話を交わしてこちらを振り返り、手招きをする。

「久しぶりに聴いていってよ」

 まさかの誘いに、燎の鼓動が跳ねる。

「動画撮るからさ。次はアメリカに行くんだ。どこだと思う?」

「……ロサンゼルスですか?」

「当たり」

 一儲けしないとな、と兄弟子は小声で付け加えてにやりと笑う。

 店内の奥にあるグランドピアノーー兄弟子はグランドピアノを愛してやまない。パワーが違うという理由でーーに腰掛け、あの時と同じ儀式を、あの時と全く同じようにして、弾き出した。

 案の定リストだった。

 きりりと冷えた夜の風が全身を包んでも、全く寒さを感じない。連弾を終えたばかりの指はじりじりと熱を帯びていて、当分冷めそうもなかった。今しがた起こった出来事の非現実具合に、どこか夢のようなものを感じてしまう。

 しかし今日のことを絶対に忘れるわけにはいかない。燎は開いた両手に目を落とし、一度閉じて、また開いて、それから帰路に着いた。

 自宅の玄関ドアに鍵を挿そうとして、ふと思い至った。今なら、あるいは。

「自由……」

 静かな決意を言葉にして、燎は常識の扉の鍵を開けた。

 極力音を立てないように細心の注意を払ってドアノブを引く。隙間から覗き込む限り、室内に明かりは付いているが人の姿はない。燎は安堵して身体を滑り込ませ、同じように注意深く施錠した。

 あの時翔琉は何と言ったか。記憶を辿った燎は、口の中で予行練習をしてみる。

「アイムホーム」

 しかし上手くいかない。酒が入っていても、とてもじゃないがそんな浮ついた台詞、自分には言えそうもない。

「……翔琉」

 代わりに、あまり使わない方の呼び名を口にする。心臓の鼓動が次第に速く大きくなっていく。たった一言名前を呼ぶだけなのに、こんなに勇気が要る日が来るとは思わなかった。燎は咳払いで自らを奮い立たせ、大きく息を吸い込んだ。

「そこにいるのは、わかってるんだぞ。抵抗するのはやめて、大人しく投降するんだ」

 ゆっくりと、力を込めて言葉を繋いでいく。

 しかし勇気の甲斐なく、何の物音もしない。

 燎は困惑した。これから先はどうしたら良い。あらゆる書籍、映像作品の記憶を総動員して最適な答えを探した。そして翔琉の好みに自分なりの味付けをして結論付ける。

「アメリカのお祖母さんも悲しんでるぞ! 早く出てこい!」

「あっはっはっは!! おば、あ、ああーーっ!! 痛!!」

 ガタンガシャン!! ドン!!

 大笑いが聞こえて来た。続いて、何かが倒れる音がいくつも。

 燎は耐えきれず吹き出した。とっさに壁に両手をついて顔を隠す。

「ちょっ、リョウ! リョウ!! おば、おばあさんって何!?」

「ふふ、待て、俺は今、笑うのに忙しいんだ」

「何だよそれ!! ちっくしょ、やられた!!」

 廊下を曲がった角の先の方から、翔琉が大声を上げる。物音の様子からして、怪我の一つや二つしていてもおかしくはない。

 しかし、絵に描いたような反応があまりにもおかしくて爽快で、何故かひどく達成感もあって、燎はもうしばらくこのまま笑っていたいような気分になってしまったのだ。靴を脱ぐことすら、興が覚めるようで惜しかった。

 やっと落ち着いてきた頃、向こうから衣擦れが聞こえてきて、燎は顔を上げた。翔琉がはあはあと肩で息をしながらほうほうの体で顔を出した。見ると、右の袖口が黒く染まっている。

「もう〜リョウ! アメリカのおばあちゃんのせいでコーヒー零れたじゃんか! 何だよアメリカのおばあちゃんって!」

 翔琉は笑いながら手首をこちらに見せる。

「それはすまなかった。着替えてきたらどうだ、洗濯は後で俺がするから」

 思い掛けない惨事に、燎は素直に謝罪した。しかし、

「嫌だよ勿体ない!」

 と翔琉は不満の声を上げる。

「それはどういう」

「こんなに楽しいこと、他にある? 俺にはないね! それにリョウだって靴そのままだろ?」

「それもそうか。ただいま」

「ふふん、おかえり!」

 唇を軽く触れ合わせると、翔琉は至極満足そうに胸を張った。

「はあー、今日は最っ高の日だな! 記念日記念日! どうしよう俺も飲もっかな? 確かたっかいのあったよな? あれ開けていい? いいよな? よし決定!」

 翔琉は嬉々としてダンサーのように踵を返し、意気揚々と台所へ踏み出した。その背中を見た瞬間、燎の胸に静かな瞬きのようなものが訪れた。

「翔琉」

「んー?」

 翔琉は台所の床にしゃがみ込み、食品庫の引き出しを開けてお目当ての物を探している。燎は逡巡の後、意を決して口を開いた。

「……ちょっと……こっちを向いてくれないか」

 一声かけて恋人を振り向かせる。たったそれだけのこと。にもにも関わらず、油断すると声が掠れて上擦りそうだった。

「良いけど、どした?」

 きょとんとした顔で振り向いた翔琉に、燎は告げた。

「結婚しよう」

「……え?」

 翔琉の手から大ぶりのウイスキー瓶がこぼれ落ち、ごろんごろんと床を転がった。

「リョウ、今……なんて……」

「翔琉と結婚したい。愛してる」

「う、そ」

 詰まらせた声。

「嘘じゃない」

「嘘だろ……」

「酔った男の言葉が信じられないなら……断っても……いいんだぞ」

 断ってもいい。

 そう口にするのには、随分と度胸が必要だった。今まで幾度となく翔琉からの求婚をーー翔琉が毎度見事に酔った状態だったからとはいえーーにべもなく切り捨てていたにも関わらず。

「今まで断り続けてすまなかった」

「そんなこと……そんなことどうだって良い!!」

 突如、翔琉が声を張り上げてずんずんと歩み寄ってきた。

「リョウ、リョウ!!」

「ト、ーーうっ!」

 翔琉は激突もかくやという勢いで燎の胸に飛び込み、勢いを殺しきれずバランスを崩した燎は後頭部を玄関ドアに打ち付けた。

 しかし翔琉はお構いなしに背中に腕を回し、あらん限りの力で抱き締める。

「トモ、やめ……」

「やめない!! 絶っっ対にやめないからな!」

「痛いんだ、しかも、ひどく」

「知るか!」

 容赦のない叫び声に、頭と胴に次いで耳まで痛くなってきた。耳の奥がびりびりと痺れる。燎は右手で自分の耳を押さえつつ、左手を翔琉の背中に回した。

「知るか……知らないよ……リョウ……」

 しかしほどなくして燎の頬が温かく濡れ始め、燎は自分のケアを辞めざるを得なくなった。

「リョウ、うっ……リョウ……」

 燎はしゃくり上げる翔琉の頭を手で包み、優しく何度か撫でる。不思議と、自分の痛みも少しずつ引いていく気がした。

「リョウ……なあ、俺……どうしたら良いかな。どうしたら良いと思う?」

 震えが止まった翔琉は静かに腕を緩め、身体を離した。泣いているような笑っているような、何ともいえない表情だった。初めて見せるその面立ちに、燎は胸を詰まらせた。

 言葉を選ばなければならない重要な局面だという直感があった。こういう時に何か気の利いたことが言えたならーーそれこそ翔琉のようにーーと燎は初めて己の性分を呪った。

「少なくとも……あいにく婚姻届は持ち合わせてない。あと……良ければ返事を聞いてもいいか」

 かつての翔琉の言葉をなぞり、そう口にするのが精一杯だった。

「そういやもらいに行くの忘れてたな!」

 拭う間もなかった目の端に光るものを残して翔琉は笑う。久方ぶりにいつもの笑顔を見た気がして、燎は胸を撫で下ろした。

「あと返事は……でもそんなの決まってる! リョウだってわかってるだろ?」

 翔琉は少しの間目を彷徨わせてから頷いた。

 そして晴れ晴れとした笑みを投げかけ、もう一度唇を重ねてから答えた。

「結婚しよう」