光を

成人済み同棲中。「人生を変えるということ」の続き。



「どうしたんだ、そんなに神妙な顔をして」

「え?」

 翔琉は目線を正面に戻す。

 ことん、と目の前にコバルトブルーのマグカップが置かれ、長い指が静かな波のように引いていく。

「そんな顔……してた?」

「してたぞ」

 ゆらりと揺れる水面から、ふわりとほろ苦い香りが立ち上って辺りを包んでいく。

 翔琉はもう一度窓を見やる。ゆったりと泳ぐようにはためく白いカーテンの向こうに、淡く青い空が透けて見える。外から聞こえる音はたまに遠くを走る車程度だ。

 非の打ちどころのない、どこまでも完璧な日曜日の朝だった。

 ろくに眠れなかった。精も根も尽き果てた身体はあちこちが痛み、目も唇も乾いてかさついている。たった一杯のコーヒーでは、砂漠に落ちた目薬と同じだと思えるくらいに。

 何年も住んでいる部屋なのに、頭がぼんやりとしてどこか現実味が湧かない。心すらも自分の胸を離れてどこかで漂っているようだった。

 それくらい、何もかもが美しく見えた。

「俺さ、すごい人を好きになっちゃったんだなって……思って」

 今なら何を言っても許される気がした。

 自分の声が明らかに掠れているから。何も言わなくても疲れているのが伝わるから。昨日何の前触れもなくあんなことを言われ、二人で空の色が変わり始めるまで身体を溶かし合った後だから。

「突然だな」

 軋んだ低い声は年季の入った楽器のようだった。

 その張本人はダイニングテーブルに両肘を立てて指を組み、その上に顎を載せ、薄く隈をたたえたブルーの瞳でこちらを見ている。色濃い疲労を隠そうとしない、珍しく気怠そうな格好だった。

「いつものことだろ? 自分で言うのもなんだけど」

「それもそうか」

 彼は穏やかに目を伏せて微笑む。この頃よく見せるようになった表情だ。

 ゆっくりと息を吐いて手をほどき、黒いカップに人差し指と中指を掛ける。カーテンを通り抜けた暖かな朝日が彼を淡く照らし、真っ直ぐに流れた黒髪にきらきらと光の粒を生む。ひどく絵になる光景だった。

「今に始まった話じゃないな」

 そう言ってカップを傾ける。叱責も呆れもしない。ただそうだと優しく受け入れる口ぶりに、促されているのが分かった。

 一緒にジャズをやろうと声をかけた時には知らなかったこと。

 十割そばが好きとか、書道が得意とか、なのに英語も得意で、でも英会話はあまり得意ではなくて、こっそり特訓していたこととか。頭がいいのにコミュニケーションに悩む節があるとか、堅そうに見えて意外とよく笑うこととか。

 自分よりも指がすらっとしていて、毎日欠かさず手入れをしていて、指も商売道具だからと言って、なのにそんな大事な手でためらいなく自分に触れてくれるところ。

 自分が世界一になるって豪語しても笑わなかった。それどころか、じゃあ俺もお前にふさわしいピアニストにならないとなって大真面目に頷いた。

 上手くいかない日に子どもみたいに泣いても喚いても、いつもと変わりない声で「ああ」って言ってくれる。どんなに酔って帰ってもちゃんと家に入れてくれる。

 自分のためだけに、泣いてくれる。

 突然こんな話をしても、笑わずに聞いてくれる。

 燎は、はじめは翔琉の目を真っ直ぐに見つめて真剣に聞いていたが、途中で口元に手をやって身体ごと窓の方を向いてしまった。

 翔琉が全てを話し終えたところで、燎はやっと手を離して苦笑いを覗かせた。

「好きになってしまった、という言い方は正直傷つくな。そんな翔琉を心から尊敬して愛している俺はどうしたらいい。愛してしまった、とでも言うべきか? 事故みたいに」

「それは……」

 空っぽの胸に手を突っ込まれる。滑り込んできた温かな手が内側をそっと撫でて、答えを取り出そうとする。

 しかしそこに求めるものはない。翔琉は水面をぼんやりを目でなぞり、不確かなものを探った。

 ここにも答えはないと首を振った波が無言で静止したころ、燎がこちらへ右手を伸ばし、手の平を上に向けてテーブルに置いた。

 何となく今は言葉でないものを求められているような気がして、翔琉もそこに左手を重ねた。指先がそっと握られる。

「指輪を……買いに行こうか」

「え?」

「吹きにくくなるか?」

 理系の思考回路を持つ彼は大抵結論から口にする。こんな風に脈絡のない言葉かけは珍しい。

「いや、そんなことはないけど。リョウの方が弾きにくいだろ」

 だがここで真意をたずねるのは野暮な気がした。

「そこをどうにかするのが世界を獲る男……だろ?」

 人の口癖を奪って燎は微笑む。彼が言葉にすると、重みが違う気がした。どんな著名人よりも説得力があり、どんな夢でも叶う気がした。

 彼の持つ絶対的な音感のように、根拠がなくてもそれは翔琉にとって確かに信じられるしるべだった。

「ん……」

 緩く包まれた指を握り返す。

「リョウ、ごめん……俺ちょっと」

「ん?」

「泣くかも」

 絡めた指が小さく震える。息を飲んだのはどっちが先だったか。

 するりと手が離れてからすぐに、かたんと音がした。無言でダイニングチェアを抱えた燎が翔琉の隣にやってきて、腰掛けるなり肩を抱き寄せた。

「……っ」

 頭を包まれ、背中を撫でられ、優しく堰を切られた。

 翔琉は少しだけ鼻をすすってから、幸福を抱いた。