0時52分

同棲中の二人。#婚約リップ ネタ(感染症対策でマスクが必須になった世界で口紅がプロポーズアイテムになった、というもの)に触発されて書いたもの。「燎を連れ出した翔琉の話」の未来編。
「本日もご乗車頂き誠にありがとうございました」
 お決まりのアナウンスが終わると同時に背後でドアが閉まった。
 白線に降り立つと、車内の空調とは違った涼風に横髪が揺れる。燎は心地良さに目を細めた。
 最終電車を見送ったホームには、出口へ向かう乗客がぽつぽつと見受けられる。眩いライトが遠ざかって消えると、構内の照明を残して辺りはいよいよ真っ暗になった。まもなくあの電光掲示板のようにここも空っぽになるだろう。
 マンションの窓には未だいくつか明かりが灯っているが、駅前通りに並ぶ飲食店はほぼ全て閉店している。一店舗だけ営業中の飲み屋が小さな扉と窓を開け放ち煌々と黄色い光を投げかけていたが、呼びかけもむなしく遠目に見ても客の姿は見受けられない。時たま帰路に着く黒い人影が現れては通り過ぎて消えるばかりだった。
 極力外食を控え帰宅時間をずらす生活が始まって久しい。しかし、必要なことと頭で理解は出来ていても、違和感と物寂しさは拭えないままだった。
「いーじゃん! それはそれで。どっちみち俺らって元々外で飯食いながらいちゃつけないだろ? それに人少ない電車ならキスしたってバレないバレない。逆にチャンスだって!」
 前向きが長所である翔琉はかつてそう笑い飛ばしたが、実際に車内でキスを仕掛けたことは今回を含めて一度もなかった。マスク越しであっても。
「やっぱさみしーよな」
 右隣から聞こえた翔琉の呟きに燎は振り返った。
 切る機会を逃して伸びてきた髪とマスクで横顔は全て覆われてしまっている。なびいた前髪の隙間から額が覗くくらいだ。やはり自宅で切る技術を身につけるべきかもしれない、と燎は個人的な懸案を明日にでも議題に挙げることに決めた。
「そうだな」
 燎は肩を竦めて応じる。
 人前に立って演奏するのを生業にしていると、世情に真っ先に直面する。政治や経済、ライフスタイルや流行など、自分たちの収入を左右するものはどれも生々しくリアルな物ばかりだ。
 今日のセッションも良い出来だった。欠点を挙げる方が難しいくらいだ。それでも、メンバーと離れた場所で一人黒い椅子に腰し掛け鍵盤に向かい、機械的に等間隔の空きを設けた客席へ目をやる寂しさは、何度場数を踏んでも拭えない。オーディエンスへ頭を下げるたび、感謝の念と同じくらい、もっとのびのびとやれたらという複雑な気持ちが否応なしに胸を支配する。
 学生のころ自由すぎる周囲の人間に眉をひそめた自分が、今こんなにも自由を渇望している。何とも皮肉だ。
「俺、最近考えてたことがあって」
 翔琉が一歩を踏み出した。革靴がアスファルトにこすれ、ざらりと音を立てる。
 燎は顔を上げた。物思いにふけっているうちに、ホームは無人になっている。燎は息をひそめて後に続いた。
 翔琉は、柄にもないゆっくりとした足取りで数メートル歩いてから、椅子にトランペットケースを置いた。ブルーのボディには燎が初めて目にした時より小傷が増え、照明を浴びて鈍いグレーの線がいくつも走っている。
 翔琉は屈んで蓋を開き、中から小さな紙包みを取り出した。尋ねていいものかどうか燎が躊躇っているうちに、翔琉はテープを剥がして品物を抜き取り包みをトランペットケースに戻してしまった。
 カチッ。
 手の中で軽く硬い音が上がる。
 翔琉は確かめるように頷いてから、こちらに向き直った。
「リョウ」
 茶色の前髪が風に流れて、はっきりと視線が合う。にもかかわらず、両目だけから正確な意図を読み取るのは難しかった。ただ、真剣だということだけは理解できた。
 翔琉の指先が一瞬ひくりと動いたあと、まっすぐ伸びてきて燎の頬を辿り左耳に触れた。かさ、と擦れる音と共に耳の後ろが解放される。覆いが外れ、口元を撫でた冷気が喉を通り抜け胸の中を冷やした。
「何……を」
 燎は咄嗟に目だけを動かして左右を見渡した。幸い辺りには誰もいない。
「ごめん」
 翔琉は空いた手でぶら下がったマスクと燎の右頬をまとめて押さえ、反対の手で下唇に何かを押し当てた。胸を撫で下ろす間もない。燎は呼吸を忘れたまま、強張った身体で受け入れる他なかった。熱くも冷たくもない、硬くも柔らかくもない温度と感触。数秒の後にその物体が左右にゆっくりと一往復してから、燎はやっとそれが化粧品だと気が付いた。
「トモ、これは」
「わかってるよ。どういう意味かってことくらい」
 翔琉はさっと手を動かして化粧品と燎の口に蓋をし、目を伏せた。隠された口元が曖昧に笑った気がした。
 命を守るために素顔を隠すことが半ば義務になってから、プロポーズに口紅を贈ろうと誰かが言い出した。それはテレビの中の芸能人だったか、化粧品会社の広告だったか。どちらにせよ、化粧に興味の薄い燎は自分には縁のないものだとあまり気に留めてはいなかった。それがまさか自分が当の本人になるとは思ってもみなかった。しかもこんな時間のこんな場所で。
「リョウはさ、家族になるってどういうことだと思う」
 翔琉は先ほどと同じように屈み、手の中の化粧品を包みに戻してゆっくりとトランペットケースを閉める。
「それは……」
 いずれはそうなろうという暗黙の誓いのもとこの駅前に居を構えたが、いざそう問われると答えに窮する。学生の頃から同性婚の法整備は進んでおらず、入籍はおろか人前で手を繋ぐことも憚られる世の中だ。自分達は口約束でしか家族になれない。これまで長い日々の中で積み上げてきたものや、これから築こうとしていくものは、いくら二人にとってかけがえのないものだと声を上げたとしても、他人からしてみれば書類一枚よりもはるかに頼りないものだろう。
「家族が感染したらさ、絶対逃げきれないと思うんだよ。一緒に住んでたら隔離もうまくできないだろ」
 燎の答えを聞かぬまま、話の内容は切り替わった。翔琉はトランペットケースの留め金に手を掛けたまま俯いている。
「だから、家族になるってそういうことなのかもなーって。素顔を見てキスしたいからって口紅をプレゼントするやつ、最初はすげーいいなって思ったんだ。でもだんだん……大丈夫かなーって……だってその時に感染してたら……どうすんだよ」
「ーーッ」
 思ってもみない発想に燎は言葉を失った。よろめきそうになった身体をどうにか踏みとどまって支え、肩で大きく息をする。
 するとその拍子にふっと木々の香りがして、脳裏に懐かしい風景が蘇った。十年ほど前に翔琉に連れられていった別荘だ。
 時間をかけて静かに息を吸い込むと、あの日のしっとりと湿った深い木立が胸の奥に広がっていく。燎はスライドショーをめくるように頭の中で当時の記憶を漁った。
「まあでも……みんな言ってないだけで、ほんとは覚悟の上! ってやつなんだろうな」
 目の前の翔琉はからりと笑ってトランペットケースをひょいと持ち上げ肩の後ろに引っ掛けた。さあ行こうの合図だ。
 その背中に、思い出の中の翔琉が重なった。ピアノを弾けなくなった自分に翔琉が古いキーボードを引っ張り出してきた時のことを。
「弾けない時はキノコでも探そう。食えるかわかんないけど。死ぬ時は俺も一緒だから問題ないだろ」
 冗談めかした笑い声は本気だったのかもしれない。
 コツリ、コツリ、
 遠くから硬い足音が聞こえてきた。二階へ続く階段の上の端に黒い脚が覗き、少しずつこちらに近付いてきている。駅の消灯前に見回りに来た駅員だろう。
「トモ」
 燎は素早く鞄を地面に置いてお互いの顔を晒し、驚きで開かれた唇に香りを移した。すぐさま全てを元通りにして鞄を引っ掴み、突っ立ったままの翔琉を置き去りにして大股で歩き出す。二段飛ばしに登った階段の途中で駅員とすれ違う瞬間、燎は会釈を装って顔を伏せた。