晴らす

勉強する二人。



「あ〜……」
 力を失った手からシャープペンシルがぽとりと落ち、紙面からローテーブルの端へと転がる。しかし翔琉はその行く末を一切見守ることなく、胡座をかいたまま両手を後ろについた。この世の終わりのような顔で天井を見上げる彼に、
「休憩ならさっきしたばかりだぞ」
 と、燎は先回りして退路を塞ぐ。
「そう言うと思ったよ!」
「じゃあ今すぐ次の問題を解くんだ。同じ方程式が使えるだろう」
 反抗を許さず淡々と告げる燎に、翔琉は言葉にならない不満を呻き声に変え項垂れた。力無くペンを拾い上げると、現世への恨み言を垂れながら墓地を徘徊するゾンビのように、か細い芯を引きずる。
「ああ……うう……」
 対面に座っている燎は、目を凝らし眉間に皺を寄せる。死人の残した痕跡は、もはや数式として判読できるかどうかも危うい。
 せめて誰にでも判読可能な水準の字を書けと小言をぶつけたいところだが、言葉にしたところで改善の見込みは薄いだろう。翔琉が苦手中の苦手とする数学だ。自分と同じレベルを求めるのは酷な話。正答しているだけ良しとしないと日が暮れてしまう。
 先ほどああは言ったが、この調子だと間もなく本当にゾンビと化してしまうかもしれない。燎はローテーブルの下のスマートフォンで時刻を確認した。

「リョウ!」
 突然、翔琉が一瞬にして生気を取り戻し顔を上げた。
「どうした藪から棒に」
「あの音、何だと思う?」
 燎は翔琉の視線の先を辿る。白い薄手のカーテンが掛かった自室の窓。きっちり閉めたガラスを物ともしないセミ達の喧しい声にまじって、ぱらぱらと軽やかな音が聞こえてきた。
 正解は「雨」ではない。この場合翔琉の言う「何」とは、どんな音階に聴こえるかという意味だ。
「……さあな」
 燎は取りすました顔で手元の参考書に目を落とす。
 自然の音や生活音といった環境音は、明確な音階を捉えにくく、答え合わせが難しい。絶対音感を持つ燎にとっての回答は、相対音感のみの翔琉にとって正解と判断出来ないことが多いからだ。
 例えば、聞こえてきた雨音を燎がCと感じ、その二つの音を翔琉に聴き比べさせる。しかし相対音感持ちの翔琉にとってはただの「ぱらぱらという雨音とピアノで弾いたCの音」にしか聴こえないのだ。
 にも関わらず、翔琉は毎回燎の回答に膝を打ったり感嘆の声を漏らしたりして、なるほどなあとしきりに頷く。そしてこういうふとした時に、また気まぐれに尋ねてくるのだ。目新しい物を見つけた少年の眼差しで。
「あーもー! リョウ、本当は分かってるくせに!」
「どうだか」
 翔琉が心底悔しそうに食ってかかる。
 燎は、そんな翔琉から目を離さないように注意しながら、参考書の下に敷いていたノートの隅にいくつかのコードを小さな字で走り書きした。
「あっ、今書いた! 書いただろ!」
「知らないな」
 目敏く気付いた翔琉が即座に身を乗り出して指摘する。大した動体視力だ。というよりも、この場合は音への執着がそうさせているのかもしれない。燎は努めて素知らぬ顔を繕い、ノートを引き抜いてページをめくった。
「ずるい! くっそー! リョウはさあ、嘘が不得意なくせに堂々とそういうことするよなあ」
「不得意だからするんだ」
「はああ……父さんそんな子に育てた覚えはないぞー?」
「育てられた覚えはないが?」
「この薄情者! 親不孝!」
「何とでも言ったらどうだ。次のページが終わるまでは絶対に見せないからな」
「次のページ……? と、いうことは?」
「……そういうことだ」
 今度は笑みを殺さずに頷く。すると、
「よっし!! そうと決まればやるぞ!!」
 と、翔琉は渾身のガッツポーズをした。その笑顔は、降り始めたにわか雨すら晴らしてしまいそうなほどに輝いている。
 燎は、ひくりと浮いた右手をすぐに戻し、ペンを握った。
「リョウは正直だなあもう。そんなに弾きたいならそう言えば良いじゃん」
「教える側が自ら教鞭を放るわけにはいかないだろう」
 どちらも本心だった。弾きたいのも、放るわけにはいかないのも。
「じゃあ生徒の俺がサボる! そしたらリョウも安心して弾けるだろ?」
「……人の話を聞いていたのか?」
 翔琉のように、感情のままに生きられたらどんなに楽しいだろう。
 燎は今の自分が嫌いと思ったことはないし、充実した毎日に何の不足も感じない。それでも時折、この男の眩しさにただただ目を細めてしまうことがある。
 嫌なものは嫌といい、聴きたいものを聴きたいと言い、やりたいことをやりたいと言う。たったそれだけのシンプルなことが、翔琉にとっては当然のように見え、燎にとっては難しかった。
 抑圧しているとも、されているとも思わない。誰のせいとも思えない。ならばこの違いは何なのだろう。性分という一言で片付けるには些か。
「よし終わったあ!」
 燎の思考はそこで止まった。
 確かなことは、翔琉といればいつか答えが掴めそうな気がするということだ。疑問が解けることを信じて燎は頷いた。
「じゃあ、答え合わせだ」