水面の研究

練習中の二人。ピアノに没頭する燎を眺めながらぼんやり考えごとをする翔琉。相手にあって自分にないもの。正反対ゆえの尊敬と苦しさ。



 長い指の先がふいっと小さな弧を描いた。空っぽの釣り針を引き上げる釣り人のようだった。
 燎は鍵盤から最後のAmの波紋が広がって消えるのをじっと見届けている。白黒の水面が揺れることはない。
「どうだった?」
「……そうだな」
 燎は右手を顎にやり、ゆっくりとしたまばたきを境目に視線を正面に切り替えた。そこにはメーカー名が金文字で刻印されているだけ。どんなに目を凝らしても探している答えは見当たらないだろう。翔琉は黙ってその横顔を見つめた。
 燎は一点を凝視したまま睨むように目を細める。それから数秒目を閉じ、またゆっくりと開いて金文字を睨んだ。
「少し、時間をくれないか」
 燎は目を逸らすことなく口だけを開いた。
「いいよ」
 翔琉は肩から力を抜いてトランペットを片手にぶら下げ、彼の指先に目を向ける。
燎はしばらくの間右手の奥で微かに唇を震わせていたが、それが終わると両手を再び挙げ、鍵盤に付く寸前でひたりと止めた。

 その指が無音の水面の上を滑り始めた。
 途中まではどのフレーズを弾いているのか翔琉にも目視と勘で理解出来るのだが、一度弾き直しが入ると頭の中のメロディで並走するのは不可能だった。そこから先は寡黙な職人の仕事場を眺めているような気分になる。そしてそのうち、いかに自分が聴覚だけに頼り自分の音に没入しがちだったかを痛感させられてしまう。
 時折勢い付いた指先が鍵盤に触れて、
とと、とん、た、たた
と微かで不規則なリズムを刻む。翔琉が心の中で密かにエアピアノと呼んでいるそれは、燎が研究者モード――これも翔琉がこっそり名付けた――になった時だけの弾き方だった。
 どんなミスタッチでも恐れず音を出していい、こちらに気を遣うなと翔琉は今までに何度か声をかけてきた。だが燎によると気にしているのは耳の疲労とのこと。それを初めて聞いた時、手の方がよほど疲れるだろうにと翔琉は驚いたものだ。
どうやら集中して弾くのは耳と頭にかなりの負担がかかるそうで、延々と弾き続けたい気持ちとの折衷案として編み出したのがこのエアピアノらしい。
 燎が自分に対していつもそうしてくれているように、翔琉はいくらでも燎の研究に付き合うと公言していた。しかし実際は好奇心と衝動に勝る翔琉がついつい燎を振り回し、その厚意に甘えて付き合わせてしまっているのが常だ。
 本人は答え探しに必死だろうが、翔琉は少しの罪悪感と共にこの貴重な時間を一人楽しみにしていた。人のために労力を割き続けている燎が、孤独に没頭している。その現場に触れられる時間はごく僅かで、だからこそ興味をそそられた。一因を担っているのは自分とのジャズで、研究の成果は必ずこちらに返ってくるのも不思議な心地だった。鶴の機織りを見せてもらっているような気分だ。
「持ちつ持たれつだろう。俺はお前が思っているほど献身的な人間じゃない」
と燎は言う。実直なその言い方に謙遜が含まれていないのは明白だった。
それでも、翔琉は燎がたまに見せる自身への無頓着ぶりに驚いてしまう。ピアノと、仲間と、音楽。弾いているのはちゃんと燎自身なのに、熱中すればするほど何となく燎という存在が薄まっていくような気がしてならないのだ。
とんでもない奴を引き入れてしまったのかもしれない。自分が思っているよりもずっとずっと燎の底は遥か奥にあって、未だに見える気がしない。
練習量ならそこら辺の人間には勝てる自信があった。だが、燎がピアノを弾く姿に、こちらをまっすぐに見据えて意見をぶつける様に、自分が何も考えず笑っている時にさり気なく周囲を見渡す目の動きに、負けたと思ってしまった。勝負を仕掛けたことも、そのつもりも、一度だってなかったのに。
己に200%を注ぎ込む自分と、誰かと音楽とピアノに100%ずつを費やす燎。楽器、性格、生まれ育った環境、今まで触れてきたもの、興味を抱いてきたもの、何もかもが違うのだから当然だ。それでも。

 翔琉は、足音を立てないよう注意深く歩いて音楽室の壁にもたれた。白いカーテンの波打ち際は薄く紫色に染まり始め、熱を失いかけている。
「まもなく完全下校の時間です。校内の生徒は――」
 遠くの方で誰かの声が流れる。翔琉はぱたりと音を立てた波に誘われて目を細め、こめかみを冷たい壁に沿わせる。
 たたたとたん、――――た、――――

 リョウがピアニストで良かった。
もしピアニストじゃなかったら。万が一トランペッターだったら俺は。
「トモ……、トモ」
「ん? ああ、ごめん」
「全く。練習漬けもいいが適度に休まないとパフォーマンスが落ちるぞ。二ヶ所だ。まずは最後から四小節目。思い切って変えてみたい。代替案としては……」

 カーテンが深い紫に冷え始めた。