飲んだ男に飲まれるな

成人済み同棲中。酔っ払って帰宅する翔琉。フォロワー様からネタをお借りして書いた話。



 いくつかの壁で隔てられた外にある共用スペースの廊下から、リズミカルな足音が微かに聞こえてきた。耳を澄ませる。BPMは110程度といったところか。
 卓上のデジタル時計は午前一時四十分を示している。仮眠を取っておいたおかげで頭が冴えていたからか、深い時間になっていたことに気付けなかった。
 良い加減そろそろ帰宅する頃合いだろう。燎は読みかけのページの端に付箋を貼り、音楽雑誌を閉じて腰を上げた。

「りょーおー! アイムホーム!」
 解錠を告げる金属音の直後に高らかな歌声が響き渡る。
 インターホンのチャイムと同じ音階とリズム。酔っ払いにしか到底出来ない安直な歌詞なのに、メロディは寸分違わずBとGを往復しているのがちぐはぐでおかしい。
「……ッ!」
 予期せぬ笑いを誘われた燎は、危うく廊下への曲がり角で足を引っ掛けそうになった。
 数歩下がってから左手を腰に当て、大きく溜息をついて壁に右半身を預ける。曲がり角の手前なのであの天才シンガーからは死角になる形だ。燎は僅かばかりの時間稼ぎをしながら作戦を練った。
 今日は遅くなると事前に聞かされていたので多少の珍事は覚悟していたが、今回は帰宅早々輪をかけて酷い有り様だ。想定以上の災難の予感に、燎は痛みそうな頭を左右に振った。

「ピーンポーンパーンポーン。彼氏さまのお呼び出しをいたしまーす」
 しかし無情にも嫌な予感は早速的中してしまった。
 今度は館内放送のチャイムを歌う声ーーまたしても正確なGのコードをなぞるメロディーーに次ぐ珍妙な台詞。燎はいよいよ耐えかね、口元を手で押さえる羽目になった。
「曲がり角のむこうに〜おかくれの〜、せかいいちのピアニスト〜どうじまりょう様〜。せかいいちのピアニスト〜どうじまりょう様〜。せかいいちのトランペッターともかわかける様がおまちでーす。しきゅう、玄関までおこし下さいませー」
 受付嬢を真似てしなを作った独特の呼び声は、明らかにこちらに向けられている。なまじ地声が高いので、難なく女声のトーンに合わせられているのが絶妙に面白い。
 長い付き合いだがこんな特技を持っていたとは知らなかった。もっとも、知らない方が良かったのかもしれないが。
 何をどう飲み食いしたらこんな戯れを閃くのだろう。燎には到底思い付きそうもない。
「ふふ、トモ。いくら何でもそれは……卑怯だぞ!」
 燎は観念して曲がり角から顔を出し、片手を挙げ投降した。
 翔琉が世界一と豪語するのは今に始まった話ではないのでさほど気にならないが、こうも連呼されるとお笑い芸人のギャグのように聞こえてしまう。
「卑怯も何も、ほんとうのことだろー?」
「それはまあ、くく、そうなんだが……」
 酸素の薄くなった頭と痙攣する腹筋では、的確な言葉で説明することができない。
「そんな元気があるなら介抱の必要は無さそうだな」
 これ以上笑わされる訳にはいかない。燎は踵を返して翔琉を促す。
「あるけどいやだね! 甘えたいんだもん」
 しかし翔琉の強情さの方が一枚上手のようだ。本心を欠片も隠そうとしない言い草は、子供のようでありながら実に堂に入っている。燎は溜息をつきながら舌を巻いた。
「アイス、買ってあるぞ」
「さーっすがリョウ! 今日も世界一あいしてるぞ! けっこんしよう!」
 作戦よりも幾らか早く、しかも切らされる形となったカードに、翔琉は歓喜の声を上げる。
「ああ、ありがとう。だがな。酔った勢いのプロポーズは何度されても受け入れられないし、手伝いはしないからな。早く靴と上着を脱いで来い。脱ぎ捨てるなよ?」
 魂胆が見え見えだ。燎は受け取った好意を軽口で返す。
「ひでー! プロポーズしてきた彼氏に小言食らわす男ってふつういる?」
「そんな男ならここにいる。俺なりの愛だ。愛の鞭、とも言うがな」
「もう! ああいえばこういう」
「俺も世界一愛してるぞ」
「ああ〜リョウさん! 何でそんなにカッコイイかなあ。俺もすき! あいしてる! けっこんしよう! 今すぐ!」
 打てば響く、とはこのことだろう。狙った通りの反応が返ってくるのは清々しく、調子の良い会話を不得手とする燎でもついあれこれと言葉を掛けてみたくなる。
 元々翔琉はテンポ良く話す男だが、流石酒の力か、良く言えば磨きがかかっている。悪く言えば、
「人の話を聞いていたか?」
「聞いてないし聞きたくないね! リョウさんが判を押してくれるまで俺はここをうごかないからな!」
 こうだ。
 ちらと振り返ってみると、翔琉は両手を腰に当てて仁王立ちの姿勢だ。
「……婚姻届、持ってるのか?」
 まさかとは思いつつも、この男なら本当にやりかねない。万が一に備えて燎は身構え、頭の中で万年筆と印鑑の保管場所をあたった。
「……あっ」
「お前……」
 だがそれは取り越し苦労だったようだ。そういうことだろうとは思っていたが、こうも無責任では呆れて物も言えない。
「あっはっはっは!」
 調子の良い笑い声が頭に響く。今度こそ頭痛がしてきて、燎は額に手を当てた。酔っ払いに真面目に取り合うのは愚の骨頂だとあれほど学習して来たはずなのに。
 店で一番高いアイスを買ってきたのは間違いだったようだ。