大晦日の夜の二人。「走り続ける」(健全)の直後の話ですが単品でも読めると思います。堂嶌家少し。ほか色々と捏造。



「二人とも気を付けてね。積もったらいけないから」
 燎の母は不安の色を滲ませながらルバートに背を向けた。コツリ、とブーツが鳴る。
「じゃあまた後で。翔琉くん、燎をよろしく頼むよ」
「はい」
「父さんと母さんも気を付けて」
 燎は、両親が路肩の車へ戻るのを翔琉と並んで見送った。ドアが二つとも閉まると、ほどなくしてセダンは静かに走り出した。エンジン音が遠のき、暗闇の中で黒い車体の輪郭が曖昧になっていく。
「俺たちも行こっか」
「……トモ、傘は」
 翔琉に目をやるも、傘はおろか荷物の一つすら持っていない。
「あー、ごめん。店に置いてきちゃった。さっきすっごい良いことがあってさあ。この流れでリョウに会えると思ったら嬉しくて……つい」
 だから入れてくんない? と翔琉は甘えるようにおどけた笑みを投げてよこした。全く、と燎はため息をつき、両親の車が交差点を曲がったのを確認してから傘を広げる。
 辺りを見渡す。あれから車は一台も来ていない。歩道も無人。左隣に立つ翔琉の髪に小さな雪の粒が落ちては消えていく。
「行こうか」
 燎は左手に持った傘を翔琉に差しかけた。
 誰もいない通りは世界が生まれた時からそうであったかのように静かだった。街路を挟んで並ぶ建物の明かりだけが人の営みを表している。
 先ほどはあのように言われたが、降雪は深刻ではなかった。歩道の端や植え込みを見ても積もっている所は見受けられず、靴底の感触に違和感はない。しかし冷え込みは厳しい。それなりに着込んできたものの、露出している部分は少し歩いただけでみるみるうちに外気と同じ冷たさになる。燎は空いている手で耳を覆った。鼓膜を刺されるような感覚に顔を歪める。本格的に痛み始めるのは時間の問題かもしれない。耳当てを持ってこなかったことを後悔し、白い息を吐いた。人を咎めることはできないな、と観念して手を下ろす。
「で、その良いことというのは何だったんだ?」
 つい歩幅の狭まる燎に、翔琉は身体ごとくるんとこちらを向いて両腕を広げた。
「それがさ、聞いてくれよ! 伝説のジャズトリオに誘われちゃってさあ!」
「まさか……セッションしてきたのか」
「おう! すっっごかった。世界が揺れた! ってこういうことかなあって」
 寒気ではないものが背中を震わせ、燎は息をのむ。翔琉は前に向き直り紺色の傘の下から真っ暗な夜空を見上げる。幸せそうな笑みから白く丸い形の息がポンポンと飛び出しては漂う。それだけでどんな演奏をしてきたのかが感じ取れた。時にオーバーな表現を用いる翔琉だが、世界が揺れたなどというセンセーショナルな言い草は聞いた記憶がない。
「そうか、それは……聴きたかったな」
「俺もリョウに聴いてもらいたかったよ! んで、リョウと一緒にセッションしたかった。木暮さんのピアノもすごかったけどな?」
「伝説のトリオと比べないでくれ……」
「ごめんごめん。そういうことが言いたかったんじゃなくて。やっぱ俺はリョウのピアノが好きなんだなーって思ってさあ。技術じゃなくて気持ちの問題。……って言うとリョウが下手みたいな感じになっちゃうか。あー、難しいな」
 翔琉は燎の顔を見て感じ入るようにゆっくりと声のトーンを落とした。それから、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み歩道へ苦笑いする。
「大丈夫、伝わってる」
 翔琉がちらりと顔を向ける。そこにあった安堵の笑みに、燎は耳の奥の不快感が薄らいでいく気がした。脳裏のルバートの光景と共に、淡く温かなものが内側から耳朶へと広がっていく。その感覚に燎は目を細め、
「ならよかった」
 と小さく返事をした。
 仕事を無くした暗い車道の上で、丸い黄色の電灯が音もなく点滅を繰り返している。
「トモ。ここの信号……こういう点き方ではなかったと思うんだが」
 明かりがついているのは中央の黄色だけで、両側の赤と青は消えたまま。この道は何度も通ったことがあるが、一般的な三色の信号だったはずだ。
「え? リョウ……知らなかった!?」
 翔琉の驚いた顔がぱっと黒い影から浮かび上がり、一瞬山吹色に染まる。
「……何をだ?」
「そっか、リョウの家しっかりしてるもんな。道路の信号ってさ、これくらいの時間には点滅信号に変わるんだよ。全部じゃないらしいけどな? 何時からだったかなあ……10時か11時くらいだっけ」
「そうだったのか……」
 確かに翔琉の言う通り、今までこんな時間に外に出かけたことはなかった気がする。翔琉の表情に、燎が今回のことを申し出た時の家族の顔色が重なった。
 大晦日の深夜に翔琉と二人で初詣に行きたい。
 それを言葉にする決意を固めるまでに、燎はかなりの労力を要した。燎から見た家族はみな真面目で、世間の物差しで測れば厳しい家庭と言えるだろう。驚かれることも即断されることも想定の範囲内。翌日は他のメンバーとの参拝が控えている。客観的に見れば、わざわざこのタイミングで出かけるのは不可解だろう。それは重々承知の上。揉め事を起こしてまで我を通す気はなかったので、反対されたら潔く諦めるつもりだった。
 思い切って翔琉との関係を明かした上で正々堂々と頼み込む案も考えたが、あまりにもリスクが大きい。家族は皆ある程度の寛容さも持ち合わせていると燎は捉えているものの、こういった分野に関してどの程度理解を示してくれるのかは予想もつかない。しかし難しいなりに家族の反応を推測すると、賛成よりも反対の理由を列挙する方が容易だった。相手が誰か以前の問題として、そもそも受験を控えた大事な時期に恋愛にうつつを抜かすとは感心しない、バンド内恋愛はトラブルの元、など挙げればきりがない。やはり深い話は避けた方が無難だと結論付け、多少苦しくはなるがそれらしく、かつ嘘ではない動機を数日かけて練りに練ってから燎はダイニングで口を開いたのだった。
 案の定、母と祖母は揃って顔を曇らせた。明確に駄目とは言葉にしないものの、顔つきが語る意図は容易に汲み取れる。
 意外なことに父だけが饒舌だった。
「高校生なんて普通は遊びたい盛りだろう。燎は自分の意志で真面目に頑張ってきたんだ。父さん達が強制したわけでもないのに大したものだ。少しくらい友達と羽を伸ばしてきてもいいんじゃないか?」
 その言葉に二人はそれもそうねと食後のお茶を口にした。
 折衷案として、常に連絡が付くようにすることや、こちらからも相手の親御さんに挨拶すること、初詣以外余計な寄り道はしないことなどの条件がついた。燎の両親がついでにドライブを兼ね別の場所へ詣で、迎えに来るまでの短い間だ。それでも、こうして節目の時に二人きりで過ごす機会に恵まれただけでありがたかった。
 次の十字路を左に曲がればじきに目的地だ。
 中学生時代に出会って意気投合した当時から、翔琉は何か願い事ができるたびにその小さな神社へ立ち寄っていた。大抵の願いは演奏の上達やコンクールでの成功、球技大会や体育祭での優勝などごくありふれたもの。古式ゆかしい習慣にはじめは好感を抱いた燎だったが、その本当の動機は「昔は願いを共有してくれる友人がいなかったから」だと後になって知らされた。その時に自分がどんな返事をしたのかはまるで思い出せない。ただ胸の中に冷たく重苦しいものが垂れ込め、呼吸がおぼつかなかったことを覚えている。
「何となく気合が入るんだよな。よし! って感じがしてさ。本当に神様仏様がいるのかは正直わかんないけど、ここに来ると何となーく、見てもらえてるのかもって思えるから」
 いつも明朗快活で、周りを振り回すことをいい意味で恐れない。燎はそんな翔琉しか知らない。不確かなものに縋りたくなるような過去があったなんて今ですらうまく想像がつかないくらいだ。それが本人の口から語られた紛れもない真実だと理解していても。
 燎にも似たような過去はあった。周囲からの陰口をピアノの音で塞いだ日々。その記憶は薄らいではきたが、きっとこの先も忘れることはないだろう。感傷に心を痛めることはなくなっても、出来事だけは残り続けていく。
 燎には輝之進がいた。縋るような関係ではなかったが、友人として大きな支えだったのは確かだ。当時の翔琉はどう過ごしていたのだろう。具体的な思い出は何一つ聞かされたことはなく、燎からも尋ねたことはない。こうして触れ合うほど近くにいるにもかかわらず。
 交際相手という立場には知る権利も付随している。今の翔琉なら燎の問いに答えてくれるかもしれない。悲しい過去があったとしても、今は燎が、あるいは燎たちがいるから大丈夫だと思ってくれているはず。そんな自惚れ半分の淡い希望を抱いてしまう程度にはお互い通じ合っているという自負があった。
 それでも容易には立ち入れない。自らの手で翔琉の爛漫な表情に影を作ってしまうのが怖かった。これがもっと気軽な交際なら、多少のわがままも大目に見てもらえるかもしれない。しかし自分達は違う。一生一緒にいるのが前提なのだ。必要以上に気を遣うのはおかしいが、かといって自己中心的な言動で取り返しのつかないヒビを入れるなどあってはならない。埋められない溝を前にのびのびと演奏出来るほど自分は胆の据わった人間ではない。一生一緒にい続けるためには、修復可能な範囲までしか傷つけ合うことが許されないのだ。
「先のことを考えていいのはリスク管理というものができる人間だけだ。できないなら無理に考えるな。今だけ見て今できることをやった方がいい」
 と、燎はかつて翔琉に言ったことがある。くよくよしているよりも笑顔でいてもらいたい。それに、長所を存分に生かすには今に集中してもらう方がいい。そう考えて掛けた言葉だった。
 それが自分に跳ね返る。過去を詮索していいのは将来へのリスク管理が出来る者だけだ。身勝手な動機で大切な人の心にメスを入れても、満たせるのは己の内にある些細な何かに過ぎない。自分は翔琉を満たせているのだろうか。それくらいは聞いても許されるのだろうか。
「リョウ」
「ん?」
「そろそろ……いいかなって」
 十字路の角で翔琉が足を止める。気付けば雪はほとんどやんでいて、思い出したころにちらと白いものが舞う程度だった。燎が傘を畳んでボタンを留めると、翔琉の腕が伸びてきた。
「そうじゃなくて、さ」
 顔を上げる間もなかった。燎が真意を確かめる前に傘は奪われてしまう。翔琉は左手に傘を持ち換え、右の手の平をこちらに差し出してきた。その意図は明白だ。反射的に持ち上がった燎の手がすんでのところでピクリと跳ねる。
「いい……のか」
 胸の奥がざわつき始める。声を潜めてもそれは抑えることができなかった。翔琉の手から視線が離せない。
「多分大丈夫……だろ、これくらいなら。誰もいないし」
 燎は小さく頷いた。左手の手袋を外してコートのポケットに仕舞い、翔琉の手を取る。絡めた指先までの全てが熱かった。
 どちらからともなく歩き出す。足音がいやに大きく響く。歩幅や時間、平衡感覚に自信が持てない。今自分は上手く歩けているだろうか。手を繋ぐなど、今まで何度もしてきたことだ。朝の音楽室、部活の休憩で皆が出払った空き教室、お互いの部屋。変わらない喜びはあれど、そこに緊張を伴うことはいつしかなくなっていた。けれどそれは誰も見ていないという安心感が前提にあったからだ。場所を変えるだけでこんな有様になってしまうなど、これまで考えもしなかった。
「リョウ」
 鳥居までもう間もなくというところで、ふと翔琉が立ち止まった。後方から低く唸る音が地を這いこちらへ迫ってくる。繋がっていた手がぱっと離れる。
 青白いヘッドライトは翔琉の頬を片方だけ照らし、すぐに消え去る。それから入れ替わるようにテールランプが彼の耳元を赤く染めた。薄緑色の目にも同じ色が差す。そのまつ毛に一瞬、白く光るものが見えた気がした。燎は薄く口を開いた。凍てついた空気が忍び込んで舌を乾かす。今自分は何を言おうとしていたのだろう。何を口にしようとしても、とても今という時間にふさわしいものにはなりそうもないのに。
 また辺りは静まり返った。点々と並ぶ街灯が、ほの暗い目でこちらを見つめながら次の音を待っている。燎は手袋をはめたままの右手を握り込んだ。ぴりぴりと痺れるような違和感が広がる。思うように力が入らない。感覚はほとんど失われているようだった。まだ温度の残っている左手を伸ばし、翔琉の目元に触れる。落ちた目蓋に軽く曲げた人差し指をそっと近付けると、張りのあるまつ毛の感触と共に濡れた粒が関節に移った。
「……ごめん」
 先に言葉を発したのは翔琉だった。くしゃ、とダウンジャケットの生地の音が耳を擦る。燎が目を見開いた時には既に、翔琉の腕は燎の背中に回されていた。
「がまんできなかった……」
 ぐ、と翔琉の力が増す。傘のハンドルがコート越しの背中にめり込む。
 いつか明るい日差しの中でこの手を取ってあの鳥居をくぐれる日が来るのだろうか。それはいつのことだろう。二人で決断さえできれば明日にでもそうしたって構わないのだ。けれどその光景が燎にはどうしてもうまく思い描けない。常に先のことを見据えていなければならないのに、明日のことすら闇の中にあるようで、吸い込んだ息は気管のもっと奥にあるものまでをも凍り付かせていく。
「トモ」
 再び雪が降りだした。大きな綿雪が翔琉の髪に次々と落ちてきて白いモザイクを作っていく。
 燎は翔琉の両肩に手を乗せ、静かに身を引いた。自由の効かない両手が重力に任せてダウンジャケットの袖を滑り落ちていく。受け止めた翔琉の手にも、もはや体温はほとんど残されていなかった。最後の熱を奪ってしまうのを覚悟で翔琉の指先を握る。一生という誓いは重い一方で、この手と同じくらいに脆い。
 翔琉がぼうっとこちらを見つめている。その瞳の色は暗闇と密度を増してきた雪模様で塗りつぶされ、こぼれた息は形になる前にかき消されていく。
 軽く触れ合わせただけの唇は互いに冷え切っており、ただ柔らかさのみがそこにあった。
 それだけで十分だった。