金色のマーケット

クリスマスの二人。成人済同棲中。とっても幸せテイスト。



「じゃあ、お疲れ!」
「お疲れ様」
 今日の仕事を終え、解散した一同はそれぞれの帰路につく。翔琉だけが一人なかなかその場を離れようとせず、皆の背中が小さくなるのをずっと立って眺めていた。
「あーあ、帰りたくないなあ」
「トモはいつもそうだな」
 ついに無人になった路地に向かって翔琉は大げさにぼやく。
「だってそうだろ? 時間さえあればいつまででもやってたいよ。こんな楽しいこと」
「体力を加味していないのがさすがだ」
「細かいこと気にするなよ〜! そこはほら、ノッてりゃ関係ないし」
 燎はロングコートの襟を整え、肩で息をする。その拍子に、過酷な演奏を終えたばかりの肩がぎしぎしと軋んだ。歌い続けたのかと錯覚してしまうくらい肺も疲労していて、息を吸い込むたびに筋肉痛のような鈍い痛みが胸に響く。無意識に息を詰めてしまっていたのだろう。きりりと締まった年の瀬の空気が今は心地良く感じられるほどだった。燎は全てのボタンを留め終えたところで口を開いた。
「……どこかに寄っていくか? あまりゆっくりとは過ごせないかもしれないが」
「いいねえリョウ、そう来なくっちゃ! どこにしよっかなあ……この辺来るの初めてだもんな」
 燎の提案に翔琉は待ってましたとばかりに顔を輝かせ、辺りを見渡す。ここは自宅からかなりの距離がある。乗り継ぎを計算に含めた事実上の終電は存外に早い。今日のセッションは急な決定だったこともあり、地図と時刻表以外の情報を仕入れる余裕がなかった。周囲で明かりのついている店舗はほとんどがありふれたバーや居酒屋。今の翔琉の「気分」に添えるような雰囲気とは思えない。
「……なあリョウ、あっちから何か聞こえてこないか?」
「歌……か」
 翔琉が燎の肩をトントンと叩いて一方を指差す。その人差し指の先、遠くの方から女性の歌声が聞こえてくる。スピーカーを通しているようで、録音なのか生の音声なのかはわからない。ぼやけていてうまく聞き取れないが、ゆっくりとしたテンポと長く伸びていく高音の節回しにはどことなく覚えがあるような気がする。声のする方角に目を凝らすと、建ち並ぶ雑居ビルの切れ間をチカチカ光る電線のようなものが数本走っているのが見えた。
「……やっぱそうだよな。何だろ」
「気になるな」
「行ってみよっか! 面白そうだし!」
 翔琉は脱いだままのダウンジャケットとトランペットケースをまとめて片手に持ち、反対の手で燎の手をパシッと取って歩き始めた。いつもの癖で、店を出てすぐに手袋をはめてしまったことを燎は少しだけ後悔した。

「うわ! すっごいなあ……」
「こんな所があったとは」
 その光景に二人は揃って空を見上げた。ビル群の合間にぽっかりと空いた広場。そこは天から地までイルミネーションで彩られていた。中央には太い柱が一本そびえ立っており、表面は無数の淡い金色の電球で埋め尽くされている。柱の頂点からは、同じ灯りが鈴なりにぶら下がったケーブルが何本も放射状に伸び、地面に向かって緩やかなカーブを描いている。サーカスのテントのような形だ。二人の正面にはこじんまりとしたゲートがあり、看板には英語の飾り文字でクリスマスマーケットと書かれている。その下では巨大なサンタクロースの人形と受付係の女性がにこやかに呼び込みを行っていた。
「こんばんは! 本日最終日です。どうぞご入場下さいませ」
 二人は顔を見合わせ、足を踏み入れた。
 ソプラノ歌手のバイオリンのような歌声が朗々と響き渡っている。波形が見えそうなほどくっきりとしたビブラートが耳を打つ。この会場は手狭だと言わんばかりの声量だ。前方を見ると、小さなステージ上で赤いドレスに身を包んだ女性が一人、胸に当てた手を前に差し伸べて古き良き調べを投げかけていた。ステージ前の広場にはイートイン用のテーブルとベンチが点々と置かれており、そのほとんどが埋まっている。明日は月曜にもかかわらず盛況だ。両端には会場をぐるりと取り囲む形で小さな露店が隙間なく立ち並び、きらびやかなランプをぶら下げ客を呼び込んでいる。いかにも最後の書き入れ時といった様子だ。ホットドリンク、ビール、ヨーロッパの料理、洋菓子、雑貨。照明に浮かび上がる看板とこまごまとした品物の数々はどれも眩しく、目移りしてしまいそうだった。
 燎にとってクリスマスマーケットの風景といえば昔読んだ外国の児童小説しか思い当たるものはない。幼い子どもが母親にねだってホットチョコレートと絵葉書を買ってもらうエピソードが思い起こされる。それも散々迷った末の絵葉書だった。その心理も今なら頷ける。自分も同じようにすぐにでも買い物に繰り出すべきなのだろう。けれども、この騒がしくも温かく眩しい非日常空間をゆったりと眺めながら物思いにふけりたい気もしてしまう。
「よーし、ちょっと行ってくる! リョウの分も買ってくるからさ。何がいい?」
 そんな燎の小さな葛藤をよそに、翔琉は手近な立ち飲みテーブルに目星を付けた。落ち着く間も持たず、これ頼むぞとトランペットケースをテーブルに置いてしまう。
「……トモに任せてもいいだろうか」
「おっ、言うねえリョウ。後悔すんなよ? 美味しすぎて腰抜かしちゃうかもしんないぞ?」
「ふふ、覚悟しておこう」
 燎が笑いまじりに応じると翔琉は財布を手に肩をぐるぐる回した。そしてクルンと背を向け意気揚々と雑踏の中に消えていく。翔琉はその途中で手に持っていたダウンジャケットを宙に広げ、歩きながら袖を通した。茶色い光沢のある生地が背中をふんわりと包み、電球に照らされてきらきらと光る。
 会場に訪れている客の大半は、案の定と言うべきかカップルだった。大きなクリスマスツリーや黒板を埋める華やかなメニューに笑顔を浮かべたり、はしゃぎながらトナカイのソリに乗り込んで写真を撮ったりと、真冬の夜空の下でそれぞれが我が世の春を謳歌しているのがありありと感じ取れる。自分もいつの間にか同じ側の人間になっているのが少し信じられないようで、どこかくすぐったいようで、うまく分類の付けられない感傷に燎は小さな丸い立ち飲みテーブルに両肘を乗せてゆったりと体重をかけた。何にせよ喜ばしいのは確かだった。もし孤独なまま生きていたなら、幸福を分かち合う恋人たちを前にこんな温かい感情を持つことはなかったかもしれない。燎は翔琉と出会ってから今日までの年数を数えた。それからカバンの中身を頭の中で辿り、薄型のデジタルカメラを持ってきていたことを思い出した。
 いくつかの被写体にあたりを付けたところで翔琉が戻ってきた。両手のトレイには遠目でも分かるほどの量が乗っている。
「お待たせ! 売り切れのもあったし、チャチャッと選んじゃったからあれだけど……いい感じだと思わないか?」
「すごいな。こんな料理なかなか普段お目にかかれないんじゃないか?」
「だろ? もう全部食べたくて食べたくて困っちゃったよ!」
 翔琉は燎の助けでどうにかテーブルにトレイを置いた。カップと皿をかき分けカトラリーを配り、注文の品を並び替えていく。燎にはマグカップに注がれたホットウイスキー。翔琉は同じカップのホットワインに小ぶりの瓶ビールを一本。中央には照りが食欲をそそる焼きソーセージ、一口大に切り分けられたローストチキン、スパイスがかかったフライドポテトに白いソースが絡んだマッシュルームのグリルがひしめき合う。
「随分と買ってきたんだな」
「だってさあ、セッション終わってお腹すいた時にこんなとこ来たら買っちゃうだろ?」
「それは……そうだな。そうかもしれない」
 燎は演奏後は空腹感を覚えない方で、打ち上げの時もそこまで食は進まない。何年経っても学生時代の昼休みと変わらぬペースで飲み食いする翔琉を見ては、大したものだと思うばかりだった。しかし目の前の物珍しい料理からは香辛料と香味野菜の奥深く刺激的な風味が漂い、それだけでとてつもなく食欲をそそられる。燎はカップの取っ手に指をかけた。形はやや細身で背が高い。表には黒地に白い雪の結晶が描かれている。カップを持ち上げると甘さのあるウイスキーの華やかな芳香に混じってほのかにスパイスの複雑な香りが感じられる。
「じゃ、乾杯!」
「乾杯」
 瓶とカップが澄んだ音を鳴らす。翔琉は思い切りよくビールを煽り、ぷはーっと大きく息を吐きだした。すぐさま使い捨てのフォークでソーセージを刺して口に運び、うんうんと頷きながら味わう。実に幸せそうな笑顔だった。先ほどのステージに合わせてキリッと整えてきた茶髪が、真上から金色の灯りに照らされ木漏れ日のような陰影を作っている。薄緑色の目はすっかり蜂蜜色だ。燎は一度カップを置いた。その目が向いているのは自分ではなくビールとソーセージだと分かっているのに、言いようのない思いが胸の底から染み出してきてしまう。手を伸ばし、指先だけでそっと翔琉の頬に触れる。
「リョウ、どした?」
「……いや、何でもない」
 燎は手を下ろし再びカップを手にした。ここはあまりにも人が多すぎる。
「お前を見ていて思ったんだ。俺は幸せボケをしているのかもしれない」
 その瞬間、翔琉はソーセージの半分が刺さったままのフォークを置いて盛大にむせた。
「ちょっ、リョウ! 急に何言いだすんだよ!」
「急にも何も、俺は思った通りのことを口にしただけなんだが」
 翔琉は咳混じりに燎の名前を呼び、はあはあと上半身で呼吸する。燎が腕を伸ばして背中をさすると、しばらく経ってから翔琉はもう大丈夫と頷いた。そしてビール瓶をフォークを手に燎の向かいから隣に場所を移した。
「もう酔ったのか」
「酔ってないけど酔ったよ!」
 翔琉は乱暴に燎の腰を抱き、自分の肩を燎の肩にぶつける。燎は手渡されるまま瓶ビールに口を付け、ゆっくりと傾けた。立ち食いに立ち飲み、挙句の果てに瓶ビールは直飲みかつ回し飲み。自分はすっかり変わってしまったな、と燎は残り半分の瓶を翔琉に返した。

 帰りの鞄は、土産を兼ねたホットドリンクのマグカップ二つと翔琉が閉店前に衝動買いしたささやかな品物が数点加わったことで、幾らか重さも嵩も増した。なのに全く変化は感じ取れない。
 振り返ると、既に全ての電飾は電源を落とされ、薄ぼんやりと黒い電線が垂れ下がっているのが見て取れるだけだった。今や閉店業務のための最低限の明かりを残すのみ。サンタクロースやトナカイにも夜の影が落ち、一つの季節の終わりを冷淡に示しているようだった。しかし、冷めない熱は体の中心から手足の末端まで行き渡っており、より厳しくなった場外の冷え込みを前にしても一向に体温が下がる気配はない。
「はあ……じゃあ、帰ろっか。帰りたくないけど」
 翔琉は肩を落とし、暗い顔の雪だるまの隣をとぼとぼと通り過ぎる。
「そうだな。……今日はどうやって帰ろうか」
「え?」
 燎は心地よい酩酊感に身を任せ、軽い足取りでゲートをくぐり踵を鳴らしながら階段を下りる。
「終電はもうないぞ」
「えー!? わかってるならそういうのは早く言おうよ……っていうか、いつもは大体そういうの先に教えてくれるのに……あっ!」
 翔琉はゲートの前に突っ立ったまま燎の背中に向かってひとしきり文句を言った後、突然声を上げた。
「まさかと思うけど、わざと黙ってた……?」
「……さすがトモ、察しが早いな」
「……うっそだあ」
「嘘じゃないよ」
 燎は振り返った。それは自分で思っていたよりも柔らかい声色で、伏せた目につい笑みが滲むのを抑えられない。見上げた先で、口を開けたままの翔琉と目が合う。前に向き直ろうとした瞬間、視界の端で翔琉の表情が自分と同じように緩んだのが目に入った。
「……そっか」
 足音がタッタッと追いついてきた。翔琉は燎に並ぶと手にぶら下げていたトランペットケースをひょいと肩に引っ掛け、何かを確かめるように歩道を視線でなぞる。
「リョウ。クリスマスって……楽しいな」
 燎はその言葉のしみじみとした余韻を手の平ですくい上げ、翔琉の温かな指先に触れて応じた。
「ああ、本当に」