瞳から水彩

中学生翔燎翔。翔琉から見た、燎と音楽室のピアノ。作中の歌詞は一次創作です。




「リョウ、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
 それは本当にちょっとした興味だった。前からずっと気になっていたことだけど、絶対に知りたいというほどでもなく、また今度でいいかを繰り返しているうちに今日まで来てしまったこと。
「俺に出来ることであれば」
 リョウはいつものようにピアノの椅子から俺を見上げた。黒くて四角い椅子。そのカッチリとしたデザインには、学ランを着たリョウのまっすぐな背筋がよく似合う。自分がそれっぽく座ったとしても、あまりしっくりこないだろう。
 今までに何度か試したことはある。でもうまくいかなかった。何となくそこが特別な場所のような気がして、背もたれのてっぺんに手を置くのが精一杯だったからだ。もしかしたらリョウの家――噂では結構なお金持ちらしく、リビングにグランドピアノがあるとかないとか――に遊びに行くことの方がずっと気楽かもしれない。まだ行ったことはないし、予定もないけれど。
 とにかく、その椅子は教室にズラッと並んでるやつみたいにほいほいと腰かけていいものではなかった。冗談や遠慮でなく本当にそう思うのだ。そこに近付くたび、見えない空気の塊が邪魔をしているみたいに途中から先に進めなくなってしまう。頑張って手を伸ばし背もたれにちょんと触ると、今度はリョウがそこに指をかけて椅子を引く様子が思い浮かび、つい手を引っ込めてしまう。リョウの指は色白ですらっとしてて長くて。リョウはいつも無意識なんだろうけど、そういうちょっとした仕草にもどこか特別な雰囲気が漂っていた。それはリョウが本気でピアノを弾き込んでいるからかもしれないし、真面目な優等生だからかもしれないし、もしかしたら全部俺の気のせいなのかもしれない。何にせよ、そのたびに俺はああやっぱりここはリョウの場所なんだなと思い知ってしまうのだ。
 それは自分でもよく分からない不思議な気持ちだった。あったかいような、ひんやりするような。嬉しいような、シャキッとするような。尊敬しているのに、少し……いや結構羨ましくなるような。そんな色々な気持ちが、ミルクを垂らしたコーヒーのように胸の中で混ざっていく。自分がもっと違う人間だったらこの椅子に堂々と座れたのだろうか。昼休みにリョウのクラスに入っていって、顔も名前も知らない人の椅子を拝借する時みたいに。
 でもそれはそれで嫌だ。自分がどんな人間に生まれ変わったとしても、やっぱりこの椅子は大事にしたいし、みんなから大事にされて欲しい。自分でもわがままだとは思う。あのピアノは音楽室のピアノであって誰のものでもない。それに、そもそもリョウがこのピアノを弾くチャンスはほとんどなかった。吹奏楽部ではほとんど出番がないし、合唱コンクールの季節もまだだいぶ先だ。だからここでリョウに弾いてもらいたければ部活が終わるまで待つしかない。今みたいに。
 
 ずらりと並んだ鍵盤をぼんやり見下ろしていると、今日の音楽の授業のことが思い浮かんだ。できれば二度と思い返したくない時間だった。なのに頭が勝手に思い出してしまう。音楽の先生があの椅子に座ろうとしたときの、あの雑な手つき。自分でもびっくりした。嫌だと声を上げたくなるなんて。
 実際は何も言わずに済んだのだけど、それはそれで苦しかった。誰かに後ろから羽交い締めされてるみたいに一歩も動けないまま、ぎゅうぎゅうと絞られるような喉の奥の痛みと息苦しさ、それから単調でぼんやりした伴奏と、クラスのみんなのつまらなさそうな歌声にひたすら耐えることしかできなかった。そんなことのためにそのピアノはあるんじゃない。そんな音楽を伝えるためにそのピアノはあるんじゃない。そう叫ぶ勇気が欲しかった。それが出来ないならいっそ逃げ出してしまいたかった。やっちゃいけないことだと分かっていても。

「トモ、どうしたんだ。思い詰めた顔をして」
 黒い前髪の下で眉毛が落ちる。リョウの顔は本当に心配そうだった。いつもこうだ。真面目で冗談が通じない。こっちは本当に軽い気持ちで「ちょっと頼みたい」と言っただけなのに、今ごろリョウの頭の中では「トモが抱えていそうな深刻な悩み」が次々にリストアップされているのだろう。俺が話すのをただ待っていればいいのにそうしてどんどん先回りして、いざ俺が本題を口に出した瞬間には「そういうことだろうと思った。原因は恐らくこうだからこう対策すればいいんじゃないか」と用意された答えが返ってくるのだ。熱々の料理をポンと出しながら「出来上がったものがこちらです」と言う料理番組みたいに。何をどうやったらこんな人ができあがるんだろう。グランドピアノがある家に生まれたらこんな風になれるのだろうか。
「えっ? いや、リョウのピアノが聴きたいなーって思っただけだよ。練習じゃなくてさ、リョウが弾きたいやつ。何でもいいから」
 リョウの水色の目が丸い形に変わり、そこに夕日が映りこんでいくのが見えた。ああ、リョウの目ってそんな色になるんだとぼんやり思った。
 そんなことだったのか、心配かけないでくれ。そう言われるとばかり思っていたのに、リョウは困ったように下を向いて少し笑った。黒い前髪がまっすぐに下りてきてさらさらと揺れた。
「何でもいい、か」
 リョウは鍵盤を見ながらおでこに手を当て、首をななめに傾けた。
「ジャズじゃなくてもいいんだな?」
 そのまま鍵盤に質問するリョウにいいよと答える。リョウは頷いて座り直し、肩を回して深呼吸した。いつものルーティンだ。さらっと弾いてくれるだけでいいのに、やっぱりリョウは真面目だ。
「最近弾き始めたばかりだから精度は甘いが……というかそれ以前に……いや、演奏前の能書きはよくないな」
 リョウはまた少し笑った。それ以前にって何なんだ。喉まで出かかった質問を俺が言葉にする前に、リョウは指を鍵盤に置いてしまった。だからそれ以上は何も言えなくなった。

 リョウの右手からイントロがこぼれた。
 桜の花びらが風に吹かれてひらひらと散っていくみたいなメロディ。何の曲かは一発でわかった。
 何で。
 それは人気バンドのラブソングだった。いま何週間か連続でランキング一位を独走している。クラスでもしょっちゅう誰かが歌っているくらいだ。ジャズばっかりの自分でもさすがに知っている。いいなとは思うけど、モテる男子がカラオケで歌って女子がキャーキャー言うタイプの曲だ。リョウの真面目な雰囲気にはとても結びつかない。なのに、元々ギターソロだったそのフレーズは、リョウが弾くと始めからピアノの曲だったんじゃないかと思えてしまうくらい不思議としっくりきた。

『ぶら下がった手を見下ろす
 とっくに桜は散ったのに
 いつまで経ってもこの手は冷たいまま
 今日も君と繋がることはない

 踏み出したらどうなるかなんて
 何度考えても想像でしかなくて
 いっそここが崖なら 君の手で突き落としてもらえたら
 笑顔の下に ありもしない風景を見ている
 終わりなんて本当は望んでやしないのに』

 ボーカルが頭の中で歌い始めた。精度が甘いなんてどこが、と言いたくなるくらいリョウの手の動きは滑らかだった。でも、優しい音の響きとは反対に目には余裕がない。演奏が進むに連れてじりじりと鋭くなっては、四小節ごとにふっと見開かれる。ブレスをしているようだった。
 窓から入ってきた夕暮れが、音楽室の茶色い床にオレンジ色の光を流していく。ペダルを踏む爪先から長い影が伸びて、指揮棒のように行ったり来たりしている。

『いつまでもためらって ためらって
 決めるのは僕なのに
 今日も迷って 迷って ごまかしている
 君の笑顔に満足したふり』

 一番のサビを弾き終え、すぐに歌詞は二番に入っていく。リョウは相変わらず真剣な顔つきだ。ちゃんと聴かなきゃいけないのに、音は耳の上をするすると滑って流れて行くばかり。頭の中は、自分の記憶にある歌詞と、リョウがこの曲を弾いた理由を知りたい気持ちがぐるぐるしている。
 それをまとめて押し流すみたいに、二つ目のサビを終え勢いのついたピアノが間奏になだれ込んでいく。その終わり、リョウはこちらに聞こえるほど息を吸い込んだ。ぎゅ、とペダルが踏み込まれる。
 その音を聴いた瞬間、痛みが走った。胸がぎゅっと締め上げられるような痛み。それはあの音楽の授業の時と同じだった。打ち出された和音が次々に積み重なって厚みを増していく。二人きりの音楽室はだだっ広くて、なのにその歌はこの箱じゃ足りないくらいに響いていた。その下で床が軋んで、胸の中にあるものを底から揺さぶっていく。

『出会わなければよかったなんて
 ありきたりな言葉を使うくらいなら
 僕は何度でも君の隣を選びたい

 ずっと冷たい手のままでいい
 いつまでもさまよって さまよって
 決めるのは僕だから
 今日も笑って 笑って 目を背けてる
 自分の笑顔に満足したふり』

 最後のサビが終わった。リョウの両手がイントロに戻り、あの旋律を何度も繰り返しながらゆっくりと音量を落としていく。俺は気がつくと自分の右耳に手を当てていた。心臓の音が体の内側から強く響いてここまで聞こえている。そろそろ感想を言わなきゃいけない時間だ。でもまだ喉が痛くて苦しくて、息もろくにできない。
 結局何も出来ないままリフレインを見送った。誰もいなくなった並木道に花びらだけが落ちていくみたいだった。
 全ての音が消える。ついに自分の胸の音が聞かれる番だった。でもなぜだろう。聞いてほしいと思ってしまった。
「……リョウ」
 どうにか絞り出した声は、うまく形にならないまま震えて落ちた。
「意外……だっただろう」
 リョウは一瞬だけこちらを見上げた。その目には暗いブルーの影が差していた。リョウは俺の返事を待たずに背を向け立ち上がる。いつもとは反対の方向だった。黒い背中がぐらりと傾く。
「帰ろうか。遅くなってしまったな」
 リョウは淡々と言い、俯きがちに片付けを始めた。鍵盤ふたが下ろされ、屋根も閉じていく。サーッと乾いた音を立てて窓が端から順番に閉まっていく。元々荷物もほとんど広げていないから、ピアノの片付けさえ終わったら戸締まりをして帰るだけだ。

 カバンを持った黒い影がゆっくりと隣を通り過ぎていく。とっさにその腕をつかまえたのは、自分でもなぜかわからなかった。けれど、そうでもしないとこの苦しさが終わらない気がした。今ここでこうしないと、俺はいつまで経ってもどうしようもない痛みを抱え続けてしまう。リョウにも、それからこのピアノを触る、リョウ以外の誰かにも。
 ぎゅ、と手に力を込める。真っ黒な袖は硬くて冷たくて、そこでやっと俺は自分の手の熱さに気付いた。
「まだ、何も言ってない。リョウが好きだって……言ってない」
 自分の声のはずなのに、それはどこか遠くで鳴っているような響きだった。
 リョウがゆっくりと振り返る。水色の目は透明なオレンジで満たされている。その表面はゆらっと揺れたかと思うと、みるみるうちに水を張っていき、すぐに溢れてリョウの頬を流れていった。
 誰かの涙をきれいだと思ったのは初めてだった。