紅葉、火鉢の炭

契約不倫に踏み切る大燎大。燎→翔、大→蒼の片想い失恋が前提。全方位の地雷を踏み抜くので冒頭のキャプション必読。
みんな成人済。茶道の知識ゼロなのでほぼファンタジー。

□燎
プロとしてSCで活動中。長年翔琉に片想いしていたがついに告白できぬまま、翔琉はモブ女性と結婚してしまう。

□大和
将来家元を継ぐのが決まっている。長年蒼弥に片想いしてたが、家庭の事情もあり告白できず。家督継承を視野に入れモブ女性と結婚することに。








 燎は座卓の前に正座し、借りていた本を大和に手渡した。
 この部屋には高校生の頃から十年ほど通っているが、当時からまるで雰囲気は変わらない。ここは武宮邸にある空き部屋のうちの一つで、大和が学友と気兼ねなく過ごせるようにとあてがわれたものだ。庭園の見える廊下に面しており、耳に入るのはもっぱら風に吹かれる木立や雨の音。敷地の端にあるため他人の足音はほとんど届かない。
 小さな床の間には、細身の掛け軸と一輪の花。素人が見ても、静けさと趣深さを感じられる佇まいだ。座卓は常に磨き上げられ、艶を帯びている。座布団も定期的に打ち直しをしているのだろう、質の良いさらりとした生地と均一に詰まった綿は驚くほど座り心地が良い。
 とにかく、いつどこを見渡しても、完璧で、劣化が見受けられないのだ。庭園と一輪挿しから四季に触れることはできるのに、年月の経過がまるで感じられない。自分たちが年齢を重ねていることに違和感を覚えてしまうほどに。

 燎は手元に差し出された湯呑みに礼をし、小説の感想を述べた。
「読んでいて苦しくなる場面もあったが、それもこの作品の魅力だと思えたよ。大和の選ぶ本は人の心に迫るものが多いな」
「ありがとうございます。堂嶌くんが幅広く読むタイプの読書家で助かりました。こういう小説は、いいと思ってもなかなか人に勧めにくいですから」
「確かに」
 燎は小説の内容を思い返した。叶わぬ恋を綴った作品だ。思慕と嫉妬の入り混じった情念が徹底的に描写されていた。その執拗なまでの語り口からは、主人公の激情だけでなく、読み手を意地でも離すものかという作家の気概すら感じ取れるほどだった。鬼気迫るとはこういうことを指すのだろう。文学賞にノミネートされるのも納得だ。
 大和の言う通り、燎は基本的にどんな本でも読むものの、こと恋愛小説となると食指が鈍ってしまう。帯や裏表紙のあらすじに踊る恋や愛の文字が目に留まるたび、どうしても翔琉の姿がちらつくからだ。一度そうなったが最後、頭の後ろの方で誰かが手綱を握っているような感覚にさいなまれ、物語に没頭できなくなってしまう。
 ただ、大和から勧められた本は違った。頭の中で感想をまとめながら読み進めるため、例え恋愛小説であっても客観的に見ていられる。

 出された煎茶を口にする。
 十一月も下旬に差しかかる頃。今日は暖かい方だが、大和が準備していた火鉢がなければ一枚上に羽織るところだ。炭が時折パチッとはぜる音に耳を傾けながら、軽やかな渋みを味わう。湯呑みで指先が温められていくのが心地良い。
 大和はその道のプロなのだから、完璧なのは当然とも言える。しかし、燎は所詮元クラスメイト兼バンド仲間だ。そんな人間にも手を抜かず茶を振る舞うところに、燎は尊敬の念を抱いていた。おかげで、脳裏に焼き付いていた翔琉のタキシード姿を少しばかり追い払うことが出来た。
 自分もプロなのだ。人として私情に苦しむことはあっても、仕事に私情を挟んではならない。音楽には精神状態が大きく作用する。プラスに働くことも――それこそ、先週挙式の前撮りを済ませ、私生活も音楽活動も絶好調の翔琉のように――往々にしてよくあるが、自分の場合は悪影響でしかない。
 そこで燎は我に返った。無意識のうちにまた翔琉のことを考えていた。しかも、茶のプロから茶を振る舞われた直後に。今の自分は間違いなく渋い顔をしていたことだろう。煎茶が渋すぎたと誤解されてしまってはいけない。燎は前のめりに口を開いた。
「大和、すまない。つい考えごとをしていた。せっかく今日も……」
 燎がそこまで言い終えたところで、大和は首を左右に振った。珍しく浮かない顔だった。大和がここまで露骨に暗い表情をしているのを、燎は初めて目にしたかもしれない。
「いいんです。実は僕も似たようなものでしたから」
 燎から見た大和はあまり本心を口にしたがらない性分で、相手とは一定の距離を保って接していたように思う。例えその相手がどんなに親密な人間であっても。
 人付き合いの仕方は人それぞれ。とやかく口を出すものではない。本音を明かさずとも、大和の心の優しさは伝わってくる。こちらに深く踏み込まずにいてくれるのは、燎にとって居心地よく、時にありがたいと感じられることもあった。だからこそ、こうして明らかな態度の変化を目の当たりにすると驚いてしまうのだ。
 燎は何と答えたらいいのかわかりかねたまま、二口目を味わった。立ち入らない方がいいのか、それとも。

 迷っているうちに、磁器の澄んだ音が鳴った。
「堂嶌くん。智川くんの挙式の準備は順調そうですか」
 突然背後から強く突き飛ばされたような気分だった。
 手の中の湯呑みがつるりと滑り落ちそうになる。反射的に掴み直し茶托に戻す。気取られないようになるべく息を潜め、深呼吸を繰り返す。どこから見てもうろたえているのは明らかだ。けれど、何もせずにはいられない。これはただの世間話だと自分に何度も言い聞かせる。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんですが……いえ、今のは僕の質問の仕方が卑怯でしたね。仕切り直しをさせて下さい。実は……僕の挙式の日取りがそろそろ決まりそうなんです」
「そうだったのか。それは……」
 おめでとう。
 友人として真っ先に言うべき言葉を、燎はためらってしまった。大和の笑みに力がなかったからだ。燎は己の察する力と話術の低さを呪った。こんな時トモなら、の一言を無理やり胸の奥底へ追いやる。

 大和の婚約は、決まった当時に聞かされていた。将来の家元継承が前提なので、当然周囲の認めるものでなくてはならない。しかしその決定は、大和が相手の女性と真剣な交際と長い熟考を重ね、二人の合意の上でなされたらしい。事実、燎に婚約を告げた時の大和はいつもの柔和な微笑みだった。以降も大和自ら経過を報告してくれることもあったが、いたって順調そうだった。想像の域を出ないが、相手は将来の家元の妻になる女性だ。出自も内面も、何もかも非の打ちどころのない人なのだろう。燎はそう捉えていた。
「大和。うまく言葉にできず申し訳ないんだが、何か心配事があるのか? 言いたくないなら無理に言わなくてもいい。ただ何というか、今のお前を見ていると……」
「ストレートに祝っていいのかわからない。でしょう」
 大和の静かな一言は、水を打つようでもあった。
「そう……いうことになる」
 戸惑いが嫌な予感に変わっていく。燎はたまらず本音を漏らした。吐き出した息が震えそうになる。これが俗に言う胸騒ぎというものなのだろうか。何度息を吸い込んでもまるで動悸が治まらない。
「堂嶌くん。君の口の堅さを見込んで、聞いて頂きたいことがあるんです」
 一方の大和はこちらをまっすぐに見つめる。その目つきには、日頃の柔らかさは欠片もない。一直線にこちらを見据える様には決然とした雰囲気すらあった。
「僕には好きな人がいます。それは彼女ではない、別の人間です。もうずっと前から僕は彼に焦がれて――」

 目の前の景色がふっと色を失い、平衡感覚が薄らいでいく。最後の方は、濁った水の中にいるかのように聞き取れなかった。挙式、好きな人、彼。その言葉の全てに、翔琉の笑顔と真っ白な教会と晴れ渡った空が投げ込まれ、かき混ぜられていく。
「――君も、答えたくないなら黙っていても構いません。僕の推測が正しければ君は智川くんを」
 ガタッ。
 硬く冷たい手触りに目を覚ます。咄嗟に手を付いた先にあったのは座卓の縁だった。
「……すみません。言い過ぎました」
「いや、いいんだ。そこまで大和が言ってくれたんだ。相当の覚悟が要っただろう。だから……俺も自分で言おう。いや、言わせてくれ」
 額に手を当てて目を閉じる。まだ頭の中で鈍い灰色が渦を巻いている。けれど、今を逃したら同じ機会は永久に訪れないかもしれない。元より話題が話題だ。平静を失った状態でないと、言葉にすらできない可能性もある。やはり告白するなら今しかないのだ。
 燎は何度か深く息をし、吐き出すように口にした。

「俺はトモが好きだ。出会った頃から」
 それはたった二言だった。なのに、いざ形にしてみると驚くほど長く、その長さ以上の重さがあった。これまで誰にも打ち明けずにきたことだ。もちろん翔琉本人にも。
「……大和は気付いていたんだな」
 燎の呟きに、大和はゆっくりとした瞬きで答えた。
「何となく……ですけどね。僕も長い片想いですから、感じ取れるものがあったのかもしれません」
 大和は座卓に目を落とすと、首をわずかに傾け、過去を懐かしむように目を細めた。それから小さく語りだした。蒼弥との出会い、思い出、大和が彼に寄せる深い恩と友情、それ以上のもの。
 その話は、普段自分のことを話したがらない大和にしてはかなりの長さだった。大和が言葉を切ると、時折火鉢の炭が話の繋ぎのようにパチッと小さく鳴った。
 
 大和は全てを話し終えると、一度目を閉じ、そしてゆっくりと開いた。先ほどと同じ鋭さをたたえた眼差しだった。
「大和、何を」
 風が木々をさらう時のような、ざわざわとした音が走る。大和が何をしようとしているのか、正確なところは読めない。しかし、これから大和が告げることは間違いなくとんでもないことだ。それだけは明確に分かった。知りたくもない予感だった。
 大和は黙って燎を見ていた。けれどその視点は燎の瞳にあるようで、厳密にはそうではないように感じられた。大和は燎の下まぶたの辺りを見つめている。目元の黒子を見ているのだろうか。しかし、答えを確かめる前に大和は小さく息を吐いて目を伏せた。厳かなピアノクラシックの、小節と小節の合間のようだった。
 燎はそれ以上何も言えなくなった。本来なら言うべきことは多いはず。何をしようとしているんだ、お前らしくもない、そんなことをしたら取り返しが。
 その発想に至った瞬間、燎の胃に何かが押し込まれた。それは全くの不意打ちで、自分の意思とは無関係だった。硬く、重く、無視できない程度には一定の大きさがあった。目に見えないはずのそれは、暗い灰色をしているのだろうと想像がついた。
 取り返しがつかなくなる。
 改めて言葉にするのにはかなりの決断力が要った。例え音声にしない独り言であっても。
 彼は妻帯者になろうとしている。しかも一般家庭ではない。この広い家の主だ。妻と、次の跡継ぎとなる子を愛し、幾人もの弟子を抱え、連綿と続く伝統を一つ残らず受け取り、後世へ手渡していく。彼の名前と功績は確実に歴史に残るものだ。正式に家元を継承すれば、名実ともに文化人となるだろう。もはや気軽に友人と呼んでいいのかすらわからない。そんな人物が背景に暗い影を作ってしまうなど、決してあってはならない。

「大和……やめないか」
 燎は辛うじて口を開くことができた。胃に鎮座したものが冷ややかに手を持ち上げ、声帯をひたりと掴んで離さない。
「お前なら……分かるだろう。こんなことをしても、何にもならないと」
 震えた声がうまく形を成しているか自信が持てない。しかし幸い大和には届いていたようだった。頷いた拍子に細い水色の髪がさらさらと揺れる。
「わかっていますよ。これは一時の衝動ではありません。ほんの少し自暴自棄になっているのは否めませんが」
「なら……!」
 燎は声を絞り出した。内臓の全てが強く締め上げられるようだった。
「堂嶌くん。君も心のどこかで気付いているんじゃないですか。君自身も破綻を迎えつつあると。もはやこのままでは自我を保つことすら危うい。かといって全てを放り出すわけにもいかない」
 全て大和の言う通りだった。
「君のことですから、きっとこの家のことを気遣ってくれているのでしょう。ですが、それは僕も同じです。君の家は――SwingCATSは、間違いなく売れます。その状況で万が一何かを起こしてしまったら。そしてそれが明るみになってしまったら……どうですか。僕らは環境が違いこそしますが、根っこは同じなんですよ」
 大和はそう続けた。いつもと変わらない優しく穏やかな口調だったが、音程がどこかおかしかった。低いような気もするし、どこかが部分的に上ずっているようにも聞こえる。しかし、今の燎には具体的にそれを判別することは出来ない。
「……ああ、大和の言う通りだ」
 燎は畳についていた手を握りしめた。つるつるした目に沿って指先を丸めると、関節にザラリとい草が擦れる。

「ですから……堂嶌くん。契約をしませんか。あくまで君の同意があれば、ですが。もちろん僕では智川くんの代わりは務まらない。それは分かっています」
 燎は目を見開いた。何の、と言われなくても分かってしまった自分の発想が恐ろしかった。
 しかし大和はいたって真面目なように見えた。
 その提案は主にこうだった。当たり前だが周囲には絶対に気付かれないようにすること。連絡は最小限とし、互いの様子を探ったり会いたくなったりした時は、当たり障りのない文言を隠語として使うこと。他の友人達とも欠かさず交流を続け、互いの存在を埋もれさせること。契約は一年更新とするが、状況に応じて契約内容は適宜変更を加えていくこと。
 それは燎にとって悪くない、どころかかなり魅力的かつ合理的な話だった。燎は大和ほど器用ではない。重大な秘密を抱えながら何事もなく振る舞い続けられるほど、上手い立ち回りは出来そうになかった。それに、契約という言葉の響きには明らかな仕事の空気がある。その事務的で乾いた語感は、ぬかるみから逃れたい今の自分にとって、ちょうどいい身の置き場のように思えた。
 ただ、同時にこうも考えてしまう。大和は都合のいい言葉で包んではいるが、その正体は不倫だ。しかも完全に合意の上での。これは一時しのぎでしかない。根本的な解決は何もないどころか、リスクだけを増やしている。一見楽になるように見えても、その実態は灼熱と極寒を往復するようなものだ。
 だが。燎はしばらく考え込んだ。けれど、現時点では他に良い案は思い浮かばない。浅慮かつ短絡的なのは承知で、とにかく今はこの苦痛から解放されたかった。一刻も早く。

「大和。こんなこと本来なら言ってはならないと思うんだが、いいだろうか」
「構いませんよ」
「……ありがとう」
 どんなに非常識か分かっていても、それが一番しっくりくる言葉のように思えた。先ほどはおめでとうすら口に出来なかったのに。
「それはこちらの台詞です。僕の人生において、君という友人がいて本当に良かった」
「ああ、俺もそう思っているよ」
 友人。
 燎は心の中で繰り返した。燎にとって大和は、寸分の狂いもなく友人だった。それ以上でもそれ以下でもない。今後何か心境の変化が起こることがあっても、燎は今彼に抱いている感情を正確に記憶して生きていけるだろう。そんな確信が持てそうな気がした。
「良かった。本当に」
 大和は目を伏せ、しみじみと反芻するように微笑んだ。それから手を持ち上げた。曲線を描く仕草は水の流れに似て、やはり彼が特別な家の者なのだという現実をまとっていた。
 冷たい水のような感触が燎の左頬に触れる。燎は黙ってそれを受け入れた。四つの水滴が血管に染み込み波紋を広げていく。
「……堂嶌くん」
 その声は、冬を控えた澄んだ池を思わせた。それだけで燎には大和の意図が伝わった。翔琉の真意をはかれるようになるまでには、かなり骨を折ったのに。実に皮肉だった。
「構わない。遅かれ早かれすることになるだろうから」
「……では」
 大和は燎に触れていた四本の指を滑らせ、手の平全体を燎の左頬にあてがった。茶碗に触れる静謐な動きだ。燎は目を閉じた。
 冷たく濡れた唇がそっと押し当てられる。しかしその冷たさは、ほどなくして人肌に馴染んでいった。緩やかな経過だった。大和は燎に触れた時と同じように静かに離れた。微かな衣擦れだけがそこに残って消えた。

「……僕からも敢えて聞きたいことがあるのですが」
 大和の申し出に燎は頷く。
「……どうでしたか。実際にこういうことをしてみて。万が一不快感があれば、僕らの契約は根本から成立しません」
「そういうことか。なら何の問題もない。むしろ自分の心の落ち着きように驚いたほどだよ。大和こそ平気だったか」
「はい」
 燎はもう一度頷き、大和に倣ってその頬に触れた。契約を持ちかけたのは大和だが、責任は等分であるべきだ。俺からもいいかと断りを入れると、もちろんと密やかな声が返された。
 自分から唇を重ねると、そこにはもうすっかり血が通っていた。燎は深い安堵に肩の力を抜いた。気付けば胃の中にあったものは一回り小さくなっていた。あんなに脳裏に焼き付いていたはずの翔琉の結婚指輪も、今や不思議と淡く滲んでいる。

 一瞬、水色の景色の隅にある火鉢が目についた。身を寄せ合う炭は消えない火をたたえている。熱を帯びた痛みだ。
 その奥には締め切った障子がある。皺一つない真っ白な紙の向こうに、薄赤い影が揺れている。紅葉が燃えているのだろう。想像せずとも分かるほどに。