どうか、覚えていられますように

同棲中。事後。ちょっといい暮らしができるようになった二人。翔琉にとっての変化と、温かな安らぎについて。





 とくり、とくり、と脈打っていたものが静かになっていくのを待つ。
 それは、俺がうずめていた顔を枕からずらし、目を閉じて何度か浅い息を繰り返している間にすっかりおさまった。
「リョウ……もうちょっとだけ」
「……わかった」
 リョウは繋がったままの体をゆっくりと倒し、俺の背中に覆いかぶさる。冷え始めた汗で肌と肌がつるつる滑る。リョウは嫌がるだろうに、こういう時は必ずと言っていいほど甘やかしてくれる。自分と同じように、実はこうすることが好きなのだろうか。好きだったらいいな。と淡い願いを抱いてしまう。
 本当はどう思っているのだろう。確かめようと思えばいつでも聞ける。でも、何となく答えを知りたくないような気持ちもあって、未だに聞くことのないままだ。
 重なった手。自分の指先をすり寄せると、リョウの長い指がゆるく丸まる。ピアノを弾くときの形みたいだった。ぼんやりと目を細めながら、自分のすべての指を軽く絡め合わせる。これはあの曲を弾いたときの手だと思い出し、ふたり分の手をまとめて引き寄せる。

 思い出せないタイトルの代わりにそれを口ずさんだ時、リョウはすごく苦いものでも食べたかのような顔をした。とりあえず弾きはするから曲名はその後だ、と言って演奏した曲は、その苦い顔からは真反対の優しく上品なメロディだった。
「……『愛の挨拶』だ。疑うつもりはないが、トモは本当に分からずに言ったのか」
 言われた瞬間、俺は気恥ずかしさとおかしさで笑ってしまった。確かに、恋人に弾いて聴かせるにはあまりにもベタだ。
 リョウはまたさっきと同じ苦い顔をして、口直しをさせてくれと力強く『展覧会の絵』を弾いた。これは曲もタイトルも知っていた。でも、それはそれでリョウの絵心を思い出して笑いそうになってしまい、急に張り詰めた空気をまとった背中の後ろで俺は必死に頑張ってこらえた。

 温かいタオルが背中を撫でていく。すうっと汗が引いたところに、今まで存在を忘れていたエアコンの風が当たって急にひやりとする。
 リョウは自分の痕跡を消すように俺の体のあちこちを丁寧に拭き取っていく。その優しさがいつも嬉しくて、どこか寂しかった。気だるさに任せてダラダラしたい、と言っても、真面目でキレイ好きのリョウは許してくれない。今俺の体の下から引っこ抜かれたバスタオルだって、すぐにドラム式洗濯機に放り込まれて朝にはスッキリフワフワだ。
「先に寝てろ。明日も早い」
「……ん〜」
 ふわっ、と俺の上で風が舞う。涼しい風が一気に背中を通り過ぎていったあと、少し遅れて柔らかいガーゼのケットがうつ伏せの体をすっぽりと覆った。リョウが端を引っ張って俺の両肩にきっちりとかけ、よし、と言うようにポンと手の平で軽く叩く。
 すぐにバスタオルを持って洗面所に行くのだろう、とばかり思っていたのに、なかなかリョウはその場を離れようとしない。俺が寝落ちするまで見守るつもりなのだろうか。もう子どもじゃないと何年も言い続けてるのに。それに、リョウだってまだ裸のはず。
「……リョウ?」
「……ああ、すまない。少し……名残惜しかっただけだ」
 すらっとした長い指がくしゃくしゃと髪をさらい、耳の後ろを軽く引っかく。

 寝る時なんて適当なタオルケットをお腹に引っかけるだけでいいと思ってた。洗濯機も大体何でも一緒だと。でも違った。今はリョウオススメのガーゼのケットを肩までかけるのがすごく気持ちいい。朝起きたら勝手に洗濯が終わってるのも楽だ。干して畳む、面倒くさいことをしなくていい。
 もう自分の一部はとっくにリョウに作り変えられている。居心地が良くて、温かくて、安心する。体だってそうだ。今まで知らなかったことを山ほど知った。初めての感覚も、自分が自分じゃなくなる時のふわふわしたあの感じも。触ってもらいたいと思う時だってあるくらい。だからといって、他の誰かから同じことをされてもそんな気持ちにはなれないだろう。それもきっとリョウのせいだ。

 変わってしまうことは、いつだって楽しさと不安が半分ずつだ。変化の先にはワクワクが待っている。でも、最初の一歩を踏み出すのは少し……たまにすごく、怖い時もある。
 けれど、リョウと一緒にいて気がついた。変化には二種類ある。自分から変わろうとすることと、いつの間にか変わってしまっていること。
 俺の音楽もそんな風になっているんだろうか。いつも自分がやりたい音を目指して吹いているつもりだったけれど、リョウと一緒にいることで何か変わったものがあるのかな。中学生の頃の録音はきっと……実家だ。聞きたいような、聴きたくないような。下手すぎて笑ってしまうだろうか。中学生にしては上手い! さすが俺! と誇れるだろうか。
 俺の人生は俺の人生なのに、もう自分一人だけのものじゃないんだな、という気がする。自分の体、心、生活のための道具。食べものや音楽だってそうだ。いや、音楽はずっと昔からそうだった。俺の音は俺の音。でも、俺の音楽は俺たちの音楽だ。これからもそう。もしかしたら、もっとそうなっていくのかもしれない。
 変わっていくんだな、きっと。こうやって、こんな風に変わっていく。自分のことだけど、自分の意思とは無関係に、いつの間にか、少しずつ。

 ピッピッと小さな音がして、扉を何枚か挟んだ向こう側から小さな滝のような音が聞こえてきた。それから風呂場の引き戸を開けて閉める音も。
 ざあざあと二つ目の水の音がエアコンの風をかき消して耳をふさぐ。もう目を開けていられなかった。完全にサッパリした体はとっくに涼しくなったのに、何だか自分もシャワーを浴びているみたいに温かい。
 言おうとしていた言葉はうまく形にならなかった。明日になっても覚えていられるだろうか。