河べりにスターライト

鋭い眼光と暗い水面。幸福と孤独。好きか嫌いか。現実は非情な二者択一の連続で、選べないものばかり。そんな拓夢の話。





 右耳でレイの話を聞きながら、左耳で河の音を聞く。それはルバートから二人で帰るときの拓夢の小さな楽しみのひとつ、のはずだった。
 この広い河はコンクリートできちんと整備されている。流れは穏やかで、大雨が降らない限りはいつも静かだ。水は濁っていて魚一匹見当たらない。いかにも都会の河だ。けれどその静かで寂しい雰囲気が、拓夢にとっては時々ひどく優しく感じる。
 今日もレイは拓夢の右隣でかかとを鳴らしながら、陽気に一日の出来事を振り返っている。体育で盛り上がりました、部活でこんな練習をしました、バイトが楽しかったです、今日もみんな優しかったです、毎日幸せです、などと。拓夢の左側から水の音がかき消えて、レイの弾む声が頭を埋めていく。
 けれど、拓夢の頭は何一つとしてレイの話を聞き取ろうとしてくれない。それらしいところで「ほんまやな」「レイちゃんすごいやん」「俺もそう思うわ」と相づちを入れてはいる。ほぼカンだ。レイが何も言ってこないのなら、うまくいっているのだろう。ごめんなレイちゃん、と心の中で小さく謝りながら左側の河べりを眺める。春は近いようで、まだ遠い。暗い水面は黙って波打ちながら、街灯の小さな光を飲み込んでいく。

 今日はばあちゃんの帰りが遅い。家に帰ったら速攻で夕飯を作って食べさせ、弟達の宿題を見て、早めにゲームを切り上げさせてリビングを片付けてお風呂に押し込んで、洗い物をしてから布団に叩き込む。それから洗濯を回しながら自分の宿題と予習。そろそろ譜読みも。
 はあ。
 目の前の真っ暗な景色に、雑然とした狭いリビングが重なる。片付けても片付けても散らかり続ける部屋。掃除機をガタガタ押し込むのも面倒で、もうええかを繰り返した数だけホコリが重なった床の壁際、小傷の入った中古のゲーム機、部屋に転がった充電器。二本あったはずなのに、もう一本はどこにいってしまったのだろう。

 レイちゃん、夢を見ることすら許されない人生ってどう思う。
 夜闇を背にしても輝きを失わないレイの瞳。その光を目の当たりにしてもなおそんな本音を口にできるほど、拓夢は図太くもなければ度胸もなかった。
「ヒロ、音楽はどこででもできます。ワタシはヒロと音楽をしたい。いつでも、どこでも。ヒロとならできます。そう思うのはいけないことですか?」
 いつかのレイの言葉がよみがえる。その時のレイの目も、曇りのない色をしていた。

「レイちゃん。もうすぐ二年生やな」
「ハイ。ワタシたち先輩になりますね」
「頑張ろうな。悔いのないように」
 高校を卒業して道が別れることになっても。という一言を、拓夢は暗い道端に捨てた。
 高校生活が終わっても一緒にいられる保証はどこにもない。お互いに片親の家庭。レイはともかく自分は大学に行くのかすらまだ決めきれていない。レイが家庭の事情でアメリカに戻ってしまう可能性だってある。
 アプリの広告で見かけた漫画には、好きな人と同じ大学に行きたくて猛勉強する女の子が描かれていた。でもそれは別世界のことのように思えた。何となく、自分とレイの進路は別になる気がした。ならレイを追いかけていきたいのかと言われると、多分違う。かといって、レイと離れたいのかと言われると、それも多分違う。
「そうですね。たくさん練習して、勉強して、遊びもバイトも。他にも色々です。ヒロとできる楽しいこと、全部したい。ヒロはどうですか? ワタシと同じ?」
「どうってそりゃ……」
 遠回しなことを言って察してもらうのは無理だと分かっていた。レイに伝えたいなら一から百まで言わなきゃいけない。しかも理解してもらえるように、丁寧に具体的に分かりやすい言葉で。どうにもならない自分の気持ちにまで一個ずつ名前を付けて解説しなくてはいけない。
 どんなに自分の心が暗くてずるくて後ろ向きで卑怯でも、レイは許してくれる。真正面から直視した上で、それでもヒロが好きだと言い切ってくれる。輝く笑顔で。
 だから、こうしてためらってしまうのは自分が自分を許せないからだ。自分の醜さが許せない。レイを心から信じていたら、勇気を出して何もかもをさらけ出してオレは本当はこんなどうしようもないやつなんやごめんなレイちゃんこんなオレでも好きになってくれてありがとうこれからも一緒にいてくれるやろかずっとと言いたいけどそれが難しいんやったら高校の間だけでもええから頼むもうええ加減苦しいねん解放されたいんやオレは――と泣きながら飛び込んでいけるはずなのに、いつまで経ってもできずにいる。

 レイはまっすぐに自分を見つめている。丸くて大きな目。暗い夜の色に覆われた瞳に時々行き交う車のヘッドライトが当たって、小さな黄色い光が流れ星のようにきらめいては通り過ぎていく。
「オレもめいっぱい楽しみたいで? レイちゃんと一緒やったら何だって楽しい」
 縁取りの赤いアイラインが、野生の動物のように自分の本性を鋭く捕らえようとしている。でもそれは思い込みだ。レイはそんな風に人を試したりしない。
 小さく息を吐く。何気ない風を装い体ごと左を向く。向けられる視線をかいくぐり、河べりの手すりに両手を置く。真っ暗の河を見ると、その水面のように心が凪いでいく気がした。
「ヒロ」
「何やレイちゃん」
 目を動かさずに応える。
「結婚しましょう」
「え…………は?」
 拓夢が思わず振り向く前に、両肩が強く掴まれ無理やりレイの方を向かされる。拓夢が目を見開いた時には、一瞬たりとも反らせないくらい間近にレイの瞳があった。
 真剣そのものだった。
 冗談めかすことも、うろたえることも許されない。その瞳の奥がぎゅうっと引き絞られて、針のような細く鋭いものが二本、一直線に伸びてきて自分の両目に突き刺さる。何度まばたきをしても抜け落ちない。目の奥までチクチクと痛みそうだった。
「ヒロ、ワタシはヒロと結婚したい」
「いや、あの、だからなレイちゃん」
「逃げないで、ヒロ」

 ぽた、

 漫画だったらそういう音がしていたかもしれない。でもしなかった。ただ頬が冷たく濡れただけだった。
「……逃げてなんか」
「逃げてます、ヒロは。ヒロはいつも、ワタシには分からない難しいことをたくさん考えてます。それはすごいことです。でもね、ヒロ、あなたは時々すごく悲しそうに笑いますね。ワタシはそれがとても悲しくて、さみしい。だからワタシはもっとヒロの近くにいたいの。悲しい時には逃げて下さい。でも、逃げる場所はここです。いつでもそう。ワタシのところにきて下さい。必ずです。約束してくれますか?」
「レイちゃん……! 何で、何でそないなこと言うん!! そんなん言うたらオレ……もう逃げられへんやん……!」
「だからワタシは逃げないでと言いました。ヒロ、ワタシから逃げないで。悲しみからは逃げてもいい。でもワタシからはだめです」
「そうやない……! だから、ちゃうねんて……」
 目の奥がにじみ始めた。それからは止まらなかった。人の肩にすがりついて泣くなんて、もう何年もしていない。泣く時はいつも一人だった。自分の背中に、家族以外の誰かの手が回されるなんて考えもしなかった。それがこんなにも温かいなんて。頼られることはあっても、愛されることなんて。
 もう一度愛されろ。それは、今の自分には一番過酷な頼みだ。父を失って母も失った。次は祖母の番だ。しかもそれはそう遠くはない。自分に無償の愛をくれた人間は、みな自分を置いていってしまう。レイがもし自分を愛してくれるなら、祖母の次に消えてしまうのはレイだ。
 そんなことが起こったらいよいよ自分は耐えられない。その時に自分がどれだけ大人になって本当にレイと結婚し、巷で言う真実の愛とやらで結ばれていたとしても、とてもじゃないけれど自信が持てない。与えられるものが純粋で温かくて大きければ大きいほど、失う時の痛みは膨れ上がっていく。それを自分は十分すぎるほど知ってしまった。癒えるなんて、ましてや慣れるなんて、絶対にありえない。そう確信を持って言えるくらいには思い知らされている。

「ヒロ」
 カサカサと音がして、白く四角いものが手渡される。広告の入ったポケットティッシュだった。
「準備、ええんやな」
「ハイ。ヒロを見習いました」
 ぐしゃぐしゃになった景色に派手な色の広告が染みる。三枚くらい使ったところでやっと鼻がすっきりしてきた。見渡してもゴミ箱はないようなので、バッグのポケットにストックしてある空のコンビニ袋にまとめて入れ、バッグに突っ込む。
 鼻の奥が冷たい。耳が熱くて、体がふらふらする。
「レイちゃん」
「ハイ」
「結婚なんて言うけどな? そう簡単にはでけへん。自分らまだ高校生や。大人になったとしても法律がなかったら無理や。それに、法律があっても周りの人間が何言い出すかわからんやろ」
「ホウリツ……」
「えっと……国の決まりのことやな」
「I see. それならわかります。おかみの言うことは絶対、ですね」
「だからどこで覚えたんそういう日本語」
「ンー……、ルバートのマスターかもしれません」
「ならしゃあないか。まあそれは一旦置いといて。せやからなレイちゃん。結婚したくてもできないかもしれへん」
「わかりました。じゃあ結婚しましょう。どこかで」
「いやだから何でそうなるん!」
「だって、ワタシはヒロとならどこでだって幸せです。音楽もそうでしょう? どこでだってできる。だから、日本で結婚できないなら他の国に行きましょう。どこへでも、二人で」

 またそれや。
 拓夢はレイに背を向け、手すりを握りしめた。いつからか、夢を語るレイを見るたび、拓夢は素直に話を聞けなくなっていた。目標ならまだいい。けれど、レイが語るのは叶うかどうかもわからない夢だ。何も知らない小さな子どもが「大きくなったら宇宙に行く」と言うのと同じだ。
 レイちゃんのそういうとこ、俺ほんまに、ほんまに……。
 いっそ嫌いと言えたらどんなに楽だっただろう。嫌いと言えないから苦しい。苦しいほど眩しい。けれど、レイから離れたらまた一人で全てを背負わなければならない。それはレイと出会うまでの生活に戻るだけだ。でも今の拓夢にとってはそれがひどく怖かった。孤独を埋めてもらう温かさを一度知ってしまったら、もうあのリビングに一人では戻れない。

「……レイちゃん、スケールでかすぎやろ……知ってたけどな? そんな外国行くってポンと言えんよ普通は」
「普通はそうなんですか?」
「そんなもんやで。でもよくよく考えたら、レイちゃんに普通になれとか普通を知れって言う方が無茶やわ」
 そういう悪しき枠のようなものに押し込めていい人間ではないのだ、レイは。レイの良いところは枠に収まらないもっと外の方にある。そして自分はレイのそんなところをすごいと思っていたのだ。暗く濁った水のような心の中にあっても、それは間違いのない感情だった。
「……そっか、オレ。レイちゃんのそういうとこええなと思てたんやな」
「え? ヒロ、今何か言いました?」
「いーや、何も言うてへん」
 自分の気持ちをレイに説明することはできない。自分自身でもよくわかっていないものを、どうやって人に伝えたらいいのだろう。しかも相手はレイだ。
「ヒロ……今ごまかしましたね? じゃあヒロがハイと言うまでまたプロポーズします!」
「いや何でそうなるかな……」
「プロポーズ、イヤですか? 指輪の方がいいですか?」
「やめれ! ますますあかんやつや!」
「どうして! ワタシは早くヒロと愛を誓いたいのに!」
「だからまだ早いっちゅうてんねん!! もう、帰るで!!」
 冷たく硬い手すりを突き飛ばすようにして、拓夢は勢いよく河べりに背を向けた。
 まだ何もかもが早すぎる。今はまだ。